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[T57] 織田信長VS豊臣秀吉VS徳川家康

1月4日放送の「天下統一!三武将スペシャル 信長 秀吉 家康 ~真のリーダーは誰か!?~ 」。 この番組の中から気になった点をピックアップします。 <織田信長> ・自分の目的意識を持って突っ込んでいく。目的を達成するためにはいかなる困難をも乗り越え?...

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[TV] 信長・秀吉・家康の特番

天下統一!三武将SP・NTV開局55年記念番組
の備忘録。

信長に関しては桶狭間、美濃攻め、上洛、本能寺といった感じでまとめられていた。桶狭間については、義元を討つことが第一、各城攻めによって兵が分散しており手薄になっていた本陣(兵500余)を攻撃、という感じだった。

当時は農家から兵を集めたため、農閑期に兵を挙げるのが常であったが、信長は常備軍を形成した、これは兵農分離でもあった、という。そういえば、今川義元については「その時歴史は動いた(第295回)・真説・桶狭間の戦い」で寄親寄子制というものについて紹介されていたことを思い出した。

そういうことも相まって稲葉山城を落としたら岐阜城と名前を改めここに拠点を移したが、そういうことも当時としては珍しい感じだったらしい。この後、天下布武という印を使うようになった。番組ではポルトガルの図書館にあるルイスフロイスの著作(を書き写した現存する中でもっともオリジナルな史料)を紹介、そして信長に関する記述を紹介した。

秀吉は木下藤吉郎という名前が史料に出てくるタイミング的にも、その幼少期はかなり謎であるらしい。番組では秀吉の親戚に商人が多く秀吉は商人出身ではないだろうか、行商人だったのではないか、などと紹介した。国盗り物語が読みたくなった。

墨俣築城については、信長からさほど人数も与えられていないものの、蜂須賀小六正勝のつてから人手を工面する。築城に関しては全工程数十日のところ、組み立てたものを川に流して運ぶ方法を採り、ラストの3日くらいで築城を完成させたという。よく聞くエピソードではあるが、商人出身だったのではないか、と聞いた前と後では話の印象も変わって聞こえたのが面白かった。

家康は幼少より人質として今川に送られるところ、家臣の裏切りによって織田へ送られた。家康は8歳、信長は14歳。信長と家康の縁はこの時から始まっていたらしい。まもなく家康の父が家臣の手により暗殺され、家康の身は人質として今度は織田から今川へと移った。桶狭間の合戦により義元が討たれたことによって、家康は岡崎城へ戻ることが出来た。同盟とはいっても信長は主人で家康は家来というような関係である。

信玄は上洛の際、家康の領内を通ろうとしたため、家康は兵を挙げてこれを討とうとしたが、大敗を喫した。三方ヶ原の戦いという。この時家康は30歳。武田は魚鱗の陣であり、家康は鶴翼の陣であったらしい。家康はクソまみれになりながら逃げ帰った。城に戻って即、絵師にその時の自分の肖像画を書かせた。

本能寺の変では家康は大坂におり、一時は切腹を考えた。伊賀忍者である服部半蔵に導かれ、伊賀道を通り、伊勢湾を渡り岡崎へ戻ることが出来た。(この時点からであるかどうかは分からないが)家康が忍者を召抱えたということは有名。無事本拠へ戻ることができた家康は兵を挙げて明智を討とうとしたものの、既に秀吉が討っていた。家康は武田を攻めた。結果、武田の家臣団を手に入れた。武田の赤備えが井伊に継承された。番組は、家康はこうして忍者と武田の兵法を手中におさめた、とまとめていた。

家康は織田信雄を立てて挙兵する。家康は小牧山城に入る。その後、周辺の防備を固めた。秀吉も大阪城から到着して着陣したものの、両軍は動くことなく膠着した。秀吉の別働隊は家康の本拠を落とそうと動いたが、これを察知した家康はこれを壊滅させた。その後、家康側の軍は小幡城に入る。この情報を得た秀吉は小幡城を包囲しようと目論んだが、その動きを察した家康は小幡城を出て小牧山城へ移ったため、秀吉の目論みは不発に終わった。結局家康は清洲城へ入り、秀吉は大阪城へ戻った。このように結果は家康的には上々であったが、その後肝心要の織田信雄が秀吉方と和睦したため、家康は兵を挙げる理由を失った。

その後、秀吉は妹を家康に嫁がせて政略結婚を行い、母を人質に出すに至ってついに家康を大阪城へ呼ぶことが叶う。これにより家康が秀吉の臣下であるという名目が立った。

秀吉は公家の養子に入り、関白の官位に就く。秀吉が関白となったのは49歳の時であり、ちなみに信長が志半ばで討たれたその年齢は49歳であったらしい。

秀吉が石見銀山を直轄領にしたことも紹介されていたが、石見銀山では世界の流通量のうちのかなりのシェアを占めるほどの量を算出していたらしい。

小牧・長久手は天下分け目の戦いになりそこね、家康は秀吉の臣下となることを選んだわけだが、話はいよいよ関ヶ原へ。藤堂高虎が家康陣営に入ったが、この藤堂高虎は謀略に長けていたらしい。上杉景勝に不穏な動きがあるということで、家康らが軍を組織し東進、この動きに応じて石田三成らが挙兵、関ヶ原の戦いの様相が整った。そして教科書にある通り、小早川秀秋が東軍に組したことが契機になって、関ヶ原の戦いは東軍が勝利することになった。

番組では森永卓郎氏が解説として登場。

タカ派ハト派
||
新古典派ケインズ派

というようなフリップ(正確にはこれとはちょっと違うフリップ)を出して経済思想と政策との関係性を説明していた。アメリカ(共和党か)のグローバリズム(アメリカンスタンダード)のことを頭に浮かべながら、なるほどなと思った。あとWebで検索するところ、森永卓郎氏について批判的な書き込みがあったりしたのが、面白かった。

清和会経世会
新古典派ケインズ派
小さな政府大きな政府
||
グローバリズムナショナリズム

全国統一に関しては、信長はタカ派なんだろうけれども、秀吉はハト派であるとは思う。

そういえば秀吉の唐入りに関して、当時流通していたのは明の銅銭である永楽通宝であったが、明の力が弱まることにともなって悪貨が流通するようになり、市場が混乱した、という説明があり面白かった。
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