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坂の上の雲 第二部概要

第二部 須磨の灯、渡米、米西戦争、子規庵、列強、十七夜、権兵衛のこと、外交、風雲、開戦へ、第二部あとがき



年表

1893年(明治26年)
 好古が結婚する
1894年(明治27年)
 日清戦争が開戦
 ニコライ二世が即位
1895年(明治28年)
 下関条約調印、三国干渉
1896年(明治29年)
 露清密約
 好古が陸軍乗馬学校の校長に任ぜられる
 真之が11月に軍令部諜報課課員に任ぜられる
1897年(明治30年)
 曹州教案、ドイツ膠州湾を占領
 ロシア東洋艦隊旅順港に入港
 広瀬が3月に軍令部諜報課課員に任ぜられる
 真之が米国入国、広瀬が露国入国
 林董が駐露公使となる
1898年(明治31年)
 ドイツ膠州湾を租借
 旅順大連租借条約
 米西戦争
 小村寿太郎が9月に駐米公使となる
1899年(明治32年)
 イギリス九龍半島・威海衛を租借
 フランス広州湾一帯を租借
1900年(明治33年)
 小村寿太郎が駐露公使となる、林董が駐英公使となる
 真之が秋に英国から帰国、常備艦隊参謀に任ぜられる
 第二次露清密約
 義和団の乱に対し連合軍が組織され、在留民の救出戦が開始される
 好古も広島第五師団の兵站監として清国へ出征
1901年(明治34年)
 義和団の乱が収拾
 好古が清国駐屯軍守備隊の司令官を経て清国駐屯軍司令官に任ぜられる
 小村寿太郎が9月に外相となる
 伊藤博文が9月18日に渡米
1902年(明治35年)
 日英同盟が1月30日に調印される
 伊藤博文が2月25日に欧州から帰国
 真之が海軍大学校の教官に任ぜられる
 広瀬が露国から帰国、明石が露国に入国
 子規が病死する
1903年(明治36年)
 好古が清国から帰国する、ロシアの演習に出席する
 真之が結婚する、常備艦隊の参謀に任ぜられる
 東郷平八郎が常備艦隊の司令長官に任ぜられる
 児玉源太郎が参謀本部次長に就任する
1904年(明治37年)
 日露戦争開戦



「須磨の灯」

1894年に日清戦争が終わる。子規も帰国。5月下旬に神戸に到着。神戸の病院に2ヶ月間ほど入院、須磨の保養院で保養。8月20日に須磨を発ち、松山で養生する。10月19日に東京へ発つ。途中に須磨で保養。大阪と奈良を経て東京へ戻る。

神戸では虚子の看病を受ける。松山では漱石の下階の部屋に下宿する。真之も見舞いに来た。



「渡米」

広瀬武夫との交流が描かれる。1897年に真之は米国へ留学した。広瀬はロシアへ留学した。

真之は渡米前に根岸の子規を訪ねた。

渡米後、真之はマハン氏に会って教えを請うた。ちなみにマハン氏とは二回面会することができた。

好古は1896年に陸軍乗馬学校の校長に任じられた。ちなみに好古は日清戦争の前年、1893年に結婚した。



「米西戦争」

1898年4月に米西戦争が開戦された。結局、米西戦争は日本にとって日露戦争の雛形のようなものとなった。真之と柴五郎は観戦武官として従軍した。詳細は両名によって報告された。同年、小村寿太郎が米国に公使として赴任してきた。



「子規庵」

子規は根岸にいる。真之は未だ米国におり、ニューヨーク号に7ヶ月間乗船し、アメリカの艦隊勤務を実地見学している。その後、異動があって英国公使官付駐在武官として渡英。1900年9月に帰国した。

帰国後、真之は子規を訪問した。



「列強」

ロシアの近代化の祖はピョートル大帝である。ピョートル大帝の即位は1682年。またロシア人は毛皮商に味をしめてシベリアを東進していた。1711年にロシア人のコズィレフスキーとアンツィフョーロフが占守島に上陸している。

※ピョートル大帝治世下の1689年に清との間でネルチンスク条約が結ばれた。このとき外満州は清領とされた。年代は飛び、アレクサンドル二世の治世下において、清との間に1858年にアイグン条約、1860年に北京条約が結ばれ、外満州がロシア領となった。

ロシアはウラジオストックに不凍港を得るに至り、対馬に関心を寄せた。1861年にはロシア軍艦による対馬占拠事件があった。対馬は危うい状況におかれたが、対立していた英国の干渉があり、ロシア軍艦は退去するに至った。

年代は飛んで、アレクサンドル三世の治世である1911年にシベリア鉄道の起工式が行われたが、これに出席するためニコライ二世は艦隊にて極東に向かっていた。そして日本を訪問した際に大津事件が起こった。

話は日清戦争後の日本に戻る。1895年の下関条約後、三国干渉があった。1896年に露清間で密約が結ばれたが、李鴻章と張蔭桓は賄賂を受け取っている。ロシアは東清鉄道の敷設権などを得た。その後1898年に関東州はロシアが租借するに至った。義和団の乱が起こり、1901年には日露を中心とした連合軍により鎮圧された。好古も広島第五師団の兵站監として清国へ出征している。この乱が契機となりロシア軍は満州に進駐した。この時期は、ウィッテの発言力は弱まり、ベゾブラゾフと関東州総督アレクセーエフの発言力が強まっている。

好古は、1901年に清国駐屯軍守備隊の司令官を経て清国駐屯軍司令官に任命された。清国駐屯軍は天津にある。



「十七夜」

真之は1900年の秋に英国から帰国。常備艦隊の参謀に任ぜられる。1902年7月、海軍大学校に戦術講座が開設され、真之が初代教官となった。真之は東京に戻り、大学校に勤務することとなった。一度根岸の子規を見舞った。同年9月19日、子規が病死した。



「権兵衛のこと」

西郷従道、山本権兵衛による海軍建設について。山本権兵衛は1891年(明治24年)に海軍大臣官房主事に任ぜられる。1893年に大規模な人事異動が行われる。1894年に日清戦争が開戦する。日露戦争開戦は1904年。

4代海軍大臣 樺山資紀 1890年5月17日 - 1892年8月8日
5代海軍大臣 仁礼景範 1892年8月8日 - 1893年3月11日
6代海軍大臣 西郷従道 1893年3月11日 - 1898年11月8日
7代海軍大臣 山本権兵衛 1898年11月8日 - 1906年1月7日

日清戦争当時の日本海軍
 日本ロシア
一等戦艦 10,000t~010
二等戦艦 7,000t~08
三等戦艦 ~7,000t010
一等装甲巡洋艦 6,000t~010


日露戦争直前(六六体制)
一等戦艦 6隻 一等巡洋艦 6隻



「外交」

1902年に日英同盟が締結された。伊藤博文は日露同盟を模索していた。当時の駐英公使は林董(ただす)、内閣は桂太郎内閣。



「風雲」

1902年に広瀬武夫がロシアの任務から帰国した。帰国の際は、モスクワからイルクーツクまで鉄道を利用、イルクーツクから東にソリでシベリアを横断。

好古は1903年の初夏に清から帰国した。同年、日本はロシアの大演習に招待され、これに好古と大庭二郎が派遣された。

ちなみに前年の1902年に明石元二郎は駐露公使官付の武官としてロシアに入国している。明石の活動については第五部「大諜報」に描かれている。

好古と大庭二郎の両名は1903年9月4日に横浜で船に乗り、9月11日にロシア入りした。好古はニコリスクでの演習に出席した後、ロシア側を上手く言いくるめつつ、ハバロフスクと旅順を訪問(偵察)した後、帰国した。東京へ戻ったのは同年10月3日になった。

好古がロシアに向かう前の好古と真之の会話が描かれている。あと、真之は同年である1903年に結婚した。

1903年、真之が常備艦隊参謀へ、東郷平八郎が常備艦隊司令長官に任じられた。



「開戦へ」

1903年、児玉源太郎が渋沢栄一や近藤廉平を訪れ、財界の協力を仰いでいる。同年、児玉源太郎が参謀本部次長に就いた。日本とロシアの協商交渉が行われている。外相は小村寿太郎。ロシア側が強硬な条件しか提示しない。対露戦が不可避な状況へと追い込まれた。日本政府としては対露戦にあたって、第三国に講和の仲介を行ってもらう事を画策していた。第三国としては米国が望ましかった。伊藤博文は金子堅太郎を米国へ向かわせた。いよいよ開戦が迫る。内閣は桂太郎内閣である。
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