Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://tameblog.blog5.fc2.com/tb.php/696-7bc0b7a5

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

坂の上の雲 2-2 「渡米」

乃木希典大将「愚将説」を排す
http://www.hb-arts.co.jp/080710/tyasetsu.htm

古川薫 「斜陽に立つ」
斜陽に立つ



坂の上の雲〈2〉 (文春文庫)

「渡米」

好古は、日清戦争前に、四谷の信濃町十番地に一家をかまえた。母のお貞を呼んだ。愛媛松山の実家は引き払った。旧旗本の佐久間の長女の多美と結婚した、多美は24歳。日清戦争後(下述の諜報課課員の頃)には、真之も芝高輪の車町に家を持った。母のお貞も共に住んだようだ。

当時の日本は小国で諸機関も小世帯であって、一人の一日の怠慢は国家の進軍の一日の遅延となる、という状況であったらしく、そのような緊張感の中で業務が進められていたらしい。そういうことも相まって、好古は結婚に否定的であり、真之もこれに感化されていたが、好古が先に結婚することになった。

好古は、騎兵第一大隊の大隊長であり、騎兵中佐に昇進した。日清戦争から凱旋、明治29年に陸軍乗馬学校(のちの陸軍騎兵学校)の校長に任命された。当時東京鞠町にあり、目黒に移り、大正5年に習志野(千葉県薬園台)に移ったらしい。騎兵将校の育成に当って、持論により、戦術能力を高めることに努力した。明治30年に「本邦騎兵用兵論」という論文を提出した。同年に騎兵操典も改正された。

真之は戦中に中尉になり、戦後に大尉になった。横須賀の海軍水雷術練習所の学生を経て、明治29年5月11日、横須賀水雷団第二水雷艇隊付となった。ここでは広瀬武夫と一緒になった。二ヵ月後には別れた。広瀬は「磐城」の航海長、真之は「八重山」の分隊長になった。まもなく明治29年11月、真之は海軍軍令部諜報課課員となる。広瀬も明治30年3月に同課課員となる。明治30年6月26日にそれぞれの国へ留学する。

英国は財部彪(たからべたけし)、フランスは村上格一、ドイツは林三子雄、真之はアメリカで、広瀬はロシアであった。全員大尉で、秀才揃いだった。ただし広瀬は卒業席次は80人中64番であったが、ロシア熱が買われてか留学生に選ばれたらしい。

広瀬は少尉の頃からロシア語を独習していた。実戦女子大教授島田謹二著「ロシアにおける広瀬武夫」という書があるらしい。兵学校の頃の広瀬と真之の教官であった八代六郎大尉は、日清戦争の少し前にウラジオストックに諜報任務で派遣され、現地でロシア語を学び帰国した。この八代に広瀬は手ほどきを受けた。日清戦争から戻ると、ロシア語の文献も相当集めたようで、近親者が寄贈した蔵書は130冊に及ぶらしい。これらは東京外国語大学の書庫に現存するらしい。

広瀬武夫と秋山真之は仲が良さそうな感じで、諜報課課員の頃は一時数ヶ月ではあるが同居した。真之の兄も、広瀬の兄も、東京に住んでいた。好古は上述の通り四谷信濃町十番地。広瀬の兄である勝比古は海軍中佐で、鞠町(こうじまち)上六番町に住んでいた。広瀬も独身主義者であり、彼のいう嫁とは、海軍と柔道と漢詩だった。柔道は講道館に通い、嘉納治五郎直伝だった。

広瀬は豊後(大分)竹田の出身で、竹田に城がある岡藩の士族だった。父の友之允(とものじょう)は幕末に京で勤皇活動をし獄に入れられることもあったが、維新後は裁判官として勤めることとなり各地を転々とした。幼少の広瀬もこれに従った。広瀬は飛騨高山にいたときに小学校を卒業した。冬に父が単身赴任することになったときは、駕籠を追いかけてついてゆきたい(東京へ出て学問をしたい)と懇願したが追い返され、縁さきにすがって泣いた。やがて祖母のとりなしで東京へ出ることができた。祖母のことをおもいだすと涙が出るのだ、といった。

広瀬武夫というのは、小説であるからネタバレしないように書かれているが、ぶっちゃけネタバレしてしまうと、日露戦後に軍神と呼ばれるに至った。日露戦争にて戦死した際のエピソードが語り草になったらしい。

真之は根岸(上野)の子規に会いに行った。子規は自分の言論活動について、敵はいるが、自分が病人であるために、敵も強く出るのが躊躇われるのか、トクをしている、などと言った。

真之は根岸に向かっている途中にしばしば子規に会いに行くことが躊躇われたが、戦術家としてらしからぬ事であると思い直した。

戦術には、明晰な目的を立てる、実施方法を立てる、実施を決める、決めた以上は躊躇せず実行する、という鉄則があるらしい。この躊躇せずに実行、というのが容易に守れず困難であるらしい。前は頭脳、後は性格。(個人的には、躊躇すべからずの部分が難しくてよく分からなかった。最も達さねばならぬ目的があり、最も最適な方法を立てた以上、それは実行しなければならない、ということか)

真之はワシントンの日本公使館に所属した。上司は公使館付海軍武官成田勝郎中佐だった。君はアメリカで何をするのか、と聞かれ、戦略と戦術の研究です、と答え、そのように任ぜられたのか、と聞かれ、自発的です(スポンテイニアス)と答えた。けっこうアバウトであったらしい。好古のフランス留学も然り。

アメリカは当初フロンティアが多く、モンロー主義により孤立主義だった。強大な海軍を要さなかった。しかしそのうちフロンティアも消滅するのであるから、事情も変わる。ペリーの来航は1853年、アラスカを720万ドルで買ったのが1867年慶応3年、ミッドウェー島を領有したのも1867年、サモアの一島を租借し海軍基地を設けたのは1878年明治11年、ハワイに軍港を設ける権利をハワイ女王から得たのが1887年明治20年。ハワイは真之が渡米した年に合併してしまっているらしい。

真之が渡米した明治30年にアメリカが保有している戦艦は4隻だった。軍人の地位も欧州と比べれば低く、たとえば東洋艦隊司令官のペリーは大佐で、それでも実益者の最高官という感じだったらしい。海軍少将ができたのが1862年文久2年であり、真之が渡米したときの最高階級も少将だった。アメリカの海軍の拡張期と工業力の成長は符号していた。工業生産力が上昇しており、上昇率をみるに、そのうち欧州を追い越すことは確実だった。

真之は、海軍大学校長の海軍大佐のカスパー・グードリッチ、予備役大佐のアルフレッド・セイヤー・マハンの二人物に注目していた。ニューポートの海軍大学校に入りたいと思い、日本公使館から国務省を通じて海軍にはたらきかけてもらったが、機密もあってか、断られた。このためマハン大佐から個人教授を受けよう(二度、三度会ってもらうだけでもいい)、と思った。公使館を通じて現職のグードリッチ大佐に会い、紹介状を書いてくれるよう頼み込むと、快く承知してもらえた。このことを斡旋してくれた上司の成田に「とほうもない幸運だ」と言われ、「君はマハンさんの住みこみ弟子にでもしてもらうのかね」と聞かれ、「いや、研究方針さえ教えてもらえばすみます。あとは自分でやります」と答えた。

真之は9月の晴れた日の午後にニューヨークのマハン宅を訪ねた。マハンはこの日の午後いっぱいを取って待ってくれていた。

マハンはまだ60にはならないが、海軍歴は古く、アナポリスの海軍兵学校を卒業したのは19の時だった。この頃は日本は14代家茂の治世の安政5年で、日米条約が結ばれたのが6月、安政の大獄があったのが9月だった。10年後の慶応4年明治元年に、アメリカ居留民の保護のためアジア艦隊アイコロイの副長として、戊辰戦争の真っ最中の日本に来た。東シナ海を経て、長崎へ入り、瀬戸内海を経て神戸、大坂に錨をおろし、横浜、函館港にも入港した。当時の日本を知る身としては、真之と対面するのは感慨深いものがあったと描かれている。

マハンは海軍大学校の教官になり、教育と研究を行った。戦略戦術の分野に歴史研究の思考法を導入したが、当時は画期的な新しさがあった。集めた過去のおびただしい戦例を検討し、原理を探り、今度はその原理に基づいて戦史を再評価し、実戦例を批判する、といった手法だった。「海上権力史論」などを書いた。真之も英語版で読み、翻訳もされたので日本語版も読んだ。他、数多く論文を発表しており、真之も入手できる限り読んでいた。また、世界中の海軍士官によって読まれた。

黄海海戦は鴨緑江海戦と呼ばれていた。真之は周辺にはいたが、海戦には参加できなかった、資料や論文を読んで詳細を知った、と話した。マハンの論文も読み辛口だったと言うと、マハンは伊東祐亨の一つ二つを簡潔な表現でほめた。真之はマハンのネルソンに関する最新刊も読んでいたので、マハンはこれに感心した。

マハンは教課課程はせいぜい半年でありその程度で学びきることは難しく、だからみずから研究するがいい、と言った。過去の戦史の実例を、古今問わず、陸海問わず調べるよう伝授した。いくつか本も推薦した。雑多の記録も読む必要があり、個人では手に入りにくいかと思うが、海軍省の書庫にあるから、と書庫の出入りができるように取り計らってくれた。

自分でたてた原理原則のみが応用がきくものであり、他人から学んだだけではつまりません、と言われ、真之の持論と一致していた。

真之はもう一度だけ面会する機会を得たが、二度目は雑談で済むほどに、一度目で多くを吸収した。

真之は毎日ワシントンの海軍省の書庫に通い、夜は公使館の三階の私室で寝るまで読書した(夜は公刊書を読んだ)。

真之の要点把握術に関しても言及された。海軍兵学校期末試験と四年間の過去問の話などが出た。「人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ」といった。

日露戦争の艦隊参謀長(後半は加藤友三郎)の島村速雄によれば、「目で見たり、耳できいたり、あるいは万巻の書を読んで(真之は米国でもそうだったが、きちがいじみた読書家だった)得た知識を、それを貯えるというより不要なものは洗いながし。必要なものだけを貯えるという作用をもち、事あればそれが自然に出てくるというような働きであったらしい」ということらしい。



軽くまとめたかったのに、長くなってしまっている。要点把握術的に問題があると思われ。詳細はもう一度読み直せば良いのだし、さっと本棚にしまっておけば良いのかもしれない。

・秋山家も正岡家も、実家を引き払って東京へ。
・騎兵学校の習志野移転は大正5年になってから。
・子規が面白いことを言っている。病気は辛そう。
・戦術実行の精神に関して。
・広瀬武夫登場。
・真之も広瀬も異動が頻繁な感じ。
・任務がアバウトでスポンテイニアス。
・好古校長。
・マハン大佐とは二度会ったのみ。
・日清戦争海戦の概要はおそらくマハンの論文から。
・真之はきちがいじみた読書家。
・真之の要点把握術、応用力について。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://tameblog.blog5.fc2.com/tb.php/696-7bc0b7a5

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。