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坂の上の雲 2-3 「米西戦争」

「米西戦争」




・米西戦争は日露戦争の雛形のようであった(封鎖作戦、要塞攻撃)
・小規模艦隊による冒険航海と、巨大組織と組織力との対比
・アメリカインディアンの気質と英国の謀略
・日露戦争の際に調停役を買ってもらうための米国に対する事前の外交的配慮
・新聞記事になるようにするためのパフォーマンス
・造船所は戦場さながらだったらしい





キューバにはスペインの強大な陸海軍基地があった。キューバは中南米の独立時代から取り残されていた。アメリカのハースト系、ピュリッツァ系の新聞は戦争気分を煽っていたらしい。いわゆる低級な新聞のことをアメリカではイエローペーパーというらしい。戦争に関しては大統領も実業界も海軍卿も、望むものではなかったらしい。米国政府がスペイン政府に対し、キューバの独立を認めるように交渉した。結局スペインが宣戦布告することとなった。


スペイン、アメリカが四月後半に宣戦布告。五月終わりに真之が観戦武官になる。日本の観戦武官として真之の他に、柴五郎砲兵少佐がいた。柴は会津若松出身、好古と士官学校の同期。真之はワシントンから鉄道でフロリダ半島の陸海軍の補給基地であるタンパ港へ来る。六月に輸送船に乗船する。同船が出航する。

真之が乗った輸送船団がスムーズに行かなかった点について
>なににしてもその後もっとも高い計画能力とずばぬけた能率主義をとるにいたるアメリカ軍も、この時代はどの国の陸海軍よりもそういう点が劣るといっていいようなずさんな輸送作戦だった。


スペイン史関連。隆盛期の版図に関して、西インド諸島、中央アメリカ、フィリピン諸島、南アメリカ、オーストリア、ドイツ西南部、北部イタリアなど。フランス戦の勝利、レパント海戦の勝利など。スペインのアルマダはイギリス本土攻撃を意図していたらしい。戦艦127隻、砲2000門、船員8000人。陸軍部隊20,000人を乗せて出航。迎え撃つべき英国海軍の戦艦数80隻。スペイン艦隊は英国艦隊の船足には敵わず。カレー港入港中に夜襲を食らう。グラヴリーヌ沖で海戦。残存艦隊も追撃を受け、本国帰還は54隻。世界の海上権がスペインから英国へ。参考文献としてマハンの「海上権力史論」が挙げられている。

「熱血性、熱狂性、むこうみず、個人的な冒険精神」と「組織と組織秩序、服従精神、組織運営のうまさ」が対比されている。「二隻か三隻の武装船」と「艦隊」が対比されている。


米西戦争におけるキューバでの戦闘が一段落する。


真之は八月三日にワシントンに戻る。真之は当時、海軍司令部第三局諜報課(非公表)に所属。ワシントンに戻ると「極秘諜報第百十八号」というサンチアゴ海戦についての報告書を書いた。

星亨(ほしとおる)という公使が勤めており、これが読書家で、公務はほぼ書記官任せで本を読んでおり、二階の一室を書斎とし、本棚が廊下にはみ出すほど本を買い集めている。真之はこれを断りなしに持って行っては読んでいたらしい。その星亨は帰国し後任は未定となっていた。


当時米国で建造されていた日本とロシアの軍艦は、二等巡洋艦千歳(日露戦争時第三戦隊)と二等巡洋艦笠置(日露戦争時第三戦隊)、戦艦レトウィザン(日露戦争時旅順艦隊)と巡洋艦ワリャーグ、の4隻。日清戦争後も日本国内で作れるのは小艦艇で、他は外注だった。イギリス80%、フランスとドイツ10%、国産6%、アメリカ4%だった。この二隻は吉野型快速巡洋艦で、排水量4800トン、速力22.5ノット、大小の速射砲30門。

アメリカへの発注は外交的な思惑があり、対露戦の調停役をしてもらえるように配慮していたという。千歳はサンフランシスコのユニオン造船所へ、笠置はフィラデルフィアのクランプ造船所へ発注。アメリカ人の反応は好評。さらに新聞記事になるように色々と手を打ったという。笠置の進水式にはアメリカの国務長官や海軍長官等要人を招待し、海軍長官の娘さんに斧を振ってもらうような手の入れようだったらしい。また、フィラデルフィアで午餐会を催し、ワシントンまでの帰路には食堂車を一両用意したらしい。





米西戦争について。米西戦争と日露戦争が対比されている。

スペイン艦隊は4月29日深夜にポルトガル領カボ・ベルデ群島のサン・ヴィセンテ港を出発し、カリブ海に向かった。深夜に出発した理由は艦隊行動秘匿のためだった。20余日の航海を経て、5月19日にキューバのサンチアゴ港に入った。スペインのセルベラ少将は、艦隊が質と量においてやや劣っていることを知っていた。更に、14,000マイルの航海をつづけたために、船底にかきがついて各艦とも運動能力が落ち、機械その他も修理しなければならなかった。アメリカ艦隊との海上決戦を避け、港内に留まった。軍港の要塞砲に頼って艦隊を保全しようとした。

アメリカの海軍司令部はワシントンにあった。アメリカ艦隊はキューバ島の沿岸を走り回って、5月19日の夜ごろ、ようやくその事実を確かめ、これを打電した。これと前後して既に司令部は間諜からその旨の打電を受けていた。海軍司令部の壁にはカリブ海の大海図が掲げられている。この海図に点々と軍艦のピンがおされている。

>軍艦が移動するごとにそれがうごく。敵のセルベラ艦隊の所在も、情報があるごとにピンがうごく。これによってたれの目にも状況把握が一目瞭然であり、状況さえあきらかであれば、つぎにうつべき手――たとえば艦隊の集散、攻撃の目標、燃料弾薬の補給など――ということは、どういう凡庸な、たとえば素人のような参謀でも気がつく。要するに作戦室の全員が、書記ですら、刻々の状況をあたまに入れてそれぞれの分担を処理している。組織を機能化することは、かれら開拓民の子孫たちの得意とするところであった。

アメリカとしては、セルベラ艦隊にうろうろされると、陸軍を送る海上輸送に支障をきたすため、サンチアゴ港を封鎖した。この封鎖中に真之ら観戦武官がこの海域に出向いた。封鎖作戦は長期に渡った。

このとき一度、閉塞作戦というものが立案され、実行された。サンチアゴ湾の入り口は戦艦ならやっと一隻通れるほどの狭さだった。戦術を考え出したのは、R・P・ホブソン中尉という若い機関科の士官だった。機関科の士官は当時世界のどの海軍でも正規士官にされておらず技師という待遇を受けていた。作戦に当って、決死隊が募られ、100人を超えるものが応募し、8人が選ばれた。自沈用の船は「メリマック」という2,500トンの貨物船の汽船が選ばれた。この船は石炭運びの船として参加していた。6月3日の未明に作戦が行われた。砲台に気づかれる前に、哨戒していた小さな砲艦に発見された。この砲艦の砲撃を受け、更に砲台の砲撃も受けることとなった。メリマックは自沈用の水雷を抱えていたため、それが爆発する危険もあった。そのうち舵が利かなくなった。結局十分な位置まで進めなかったが、ホブソンは自沈を命じた。ホブソンらはイカダで脱出した。イカダには自走装置はなく潮に流されるのみであり、明朝発見されるのを待つだけだった。ボートを用いずイカダを用いたというのは捕虜になるという思想が前提にあった。明朝ホブソン以下9人はスペイン汽艇に拾われて、戦時国際法通りの手厚い看護を受けた。作戦は失敗で、港口に対して横に沈まず縦に沈んでおり、スペイン艦隊の航行の邪魔にはならなかった。

サムソン少将は港外から港内に向けた砲撃も命じた。5月末日から6月中旬までのほんの10数日の間に約4,000発もの砲弾が使用された。しかしその量の割にはスペイン艦隊にはさほどの損害もなかった。

日露戦争の旅順封鎖作戦では、ロシア旅順艦隊はバルチック艦隊を待つということがあったが、米西戦争のスペイン艦隊にはそれがなく、その他の要因に頼っての辛抱強い艦隊保全だった。一方、米国軍は国内世論に手を焼いた。

6月22日に米国第五軍団がダイクイリ海岸に上陸した。サンチアゴ湾から東へ約16マイル離れた場所で、16,000の陸兵が上陸した。山地における戦闘行軍が続き、柴五郎少佐は観戦武官としてこの軍団の第一師団に同行した。

>この作戦におけるアメリカ陸軍の行軍は、作戦といい、戦闘といい、ほとんど素人の域を脱していない。ジャングルを切りひらいて道路をつくりながら進むという点で、工兵の活動はきわめて不活潑であった。偵察活動も疎漏で、敵情がよくわからない。
>酷暑で、士気が日に日に落ちた。その士気をたかめるということでは、老人のシャフター少将はかならずしも適材ではなかった。かれ自身がこの難行軍に閉口した。

上陸後1週間目の29日にアメリカ軍はサンチアゴ市外を望む地点に布陣した。これを阻止すべきスペイン陸軍の活動は不活発だった。7月1日の早朝にサンチアゴへの進撃が開始され、戦闘が本格的に始まった。スペイン軍の要塞は要塞ともいい難いほどに旧式なものであったが、アメリカ軍にすれば火砲も少なく、巨大な敵であった。兵は砲弾が落ちるたびに逃げまどい、将校はそういう兵を掌握するだけに苦労をした。

これらは柴五郎少佐によって日本の参謀本部に報告された。
>(略)、奇妙なことにこの十九世紀末の資料が日本の軍人のアメリカ陸軍に対する固定観念になり、その後もほとんど修正されることがなくつづき、こののち四十年たってこの陸軍を相手に戦いをはじめようとしたとき日本軍部はアメリカの兵士の本質についてその程度の認識しかもっていいなかった。

本国の国防省からセルベラ司令長官に対し、サンチアゴ港を脱出せよとの命令が降った。フィリピンがアメリカ軍に攻略されており、両面作戦は不利であるから、防衛を東洋に絞ろうとしたらしい。セルベラは1,000人の海兵を上陸させて陸軍に協力させていたが、その1,000人も収容して脱出せよ、という命令だった。セルベラはハバナの総督に対して、命令には従いかねるという旨の返電を送ったが、やはり脱出せよとのことだったので、従うほかなかった。

作戦は、旗艦が犠牲になり、米国戦艦が来れば突進して刺し違え、その間に他の艦が脱出する、ということで決まった。脱出は7月3日に決行された。旗艦はインファンタ・マリア・テレサといい、6890トンであった。

>スペイン人の悲哀のひとつは、その海軍予算がすくなすぎて砲術練習のための装薬がなく、どの艦のどの砲手も、実弾射撃というものをやったことがないことであった。

スペインの砲弾は当らず、アメリカの砲弾はよく当った。

>(略)インファンタ・マリア・テレサは戦艦アイオワの十二インチ主砲の砲弾を艦尾にくらい、艦の動脈というべき蒸気のパイプを一瞬で破壊された。白い蒸気が高くふきあがり、それが火災になった。艦内は蒸気と火炎で兵員の戦闘行動がさまたげられた。火は弾薬庫におよぼうとした。

セルベラは艦を座礁させるべく陸に向けたが、火は前甲板を覆った。セルベラは総員に脱出を命じ、人々は海に飛び込んだ。艦はカブレレラ岬の岸辺に乗り上げ、海面に浮いている水兵は米国艦隊に救助された。セルベラも救助された。スペイン二番艦アルミランテ・オケンドウも擱座し、乗員は捕虜になった。結局スペイン艦隊は全て撃沈または拿捕された。

・サンチアゴ(キューバ島、サンチアゴ湾内、スペイン軍港)
・セルベラ少将(スペイン海軍)
・サムソン少将(米国海軍、封鎖作戦)
・R・P・ホブソン中尉(米国海軍、技師、閉塞作戦)
・シャフター少将(米国陸軍、要塞攻撃)
・インファンタ・マリア・テレサ(スペイン海軍旗艦)
・アイオワ(米国海軍戦艦)




真之は、他の観戦武官とともにスペイン側から実態を聞き取るべく、仮装巡洋艦ハーヴァードにランチを乗りつけ、捕虜たちを慰問した。

サンチアゴ要塞の防御力について。以前からあった城(キャッスル)であり、要塞(ストロングホールド)とはいえない。ほとんどがレンガ造りであり、ベトン(コンクリート)でつくられた近代要塞ではない。スペイン艦隊が入るにあたって、急いで補強したが、土塁を6つ作っただけである。このようにアザール少佐が話した。その程度のものであるにも関わらず、4,000発の艦砲をうちこむも、損害らしい損害は与えられなかった。要塞に対しては海上からの砲火は無駄であり、陸上から攻めねばならない、という戦訓を得た。これが日露戦争の旅順攻撃で活きた。

真之はスペイン艦隊の主な軍艦4隻の残骸を詳しく調査した。この点はどの国の観戦武官も怠けた。真之は弾痕調査をした。「西(スペイン)艦隊被弾痕数統計表」を作って報告した。

インファンタ・マリア・テレサには合計23発の弾痕が認められた。実感としては1,000発も当ったような印象だっただけに、意外だった。アメリカ戦艦の12インチ以上の主砲弾は2発しか当っていなかった。ビスカヤが26発、アルミランテ・オケンドウが50発。クリストバル・コロンが6発、これはおそらく艦の戦闘力を失うに至っておらず、戦意喪失によって擱座させられたものではないだろうかと推測した。

>「この表をみるに、スペイン軍艦の被弾はさほど多くはない。その致命的な打撃はなんであったかをみるに、火災である」

真之はアメリカ軍艦も調査して被弾状況を調べた。アメリカ側はほぼ無傷に近かった。

アメリカ側は砲数の差、艦載速射砲、命中率(距離測定器)において優越していた。

弾数に関して
>「アメリカ艦隊の砲数の優越」
>アメリカ側のは「みな新式鋭利」のものであったが、スペイン側の主力艦三隻につまれたホントリア式十四サンチ速射砲は速射砲という名ばかりの劣弱な機能しかもっていない。
>(略)砲数と砲の機能からみて、一定の時間内に発射される砲弾量はスペイン艦はアメリカ艦の三分の一にすぎない。

命中度に関して
>(距離測定器について)アメリカ艦は新式のものを用いていた。
>「射撃の巧拙は、両軍すこぶる拙劣である。しかし米軍は実弾練習量においてまさり、右の測定器※のために照準においてもまさっていた」※距離測定器
>真之はさらに、両軍の発射量を概算し、それによって命中度を算定した。
>かれの計算によればアメリカ側は百発に二発、スペイン側は百発に一発。

士気に関して
>「スペイン軍人は風紀敗頽して、開戦のときにはすでに元気が衰耗していた。さらにスペイン人の固有の気質として、ラテン人種の民族的遺伝によるものか、一時に熱中してもただちに冷えるというこまった性質を共有している」
>「戦勢が最初から有利であったから、しだいに旺盛へむかって行ったようである。有利とみるや勇進するのは米人の特性である。個人的勇気の例は、猛火につつまれたスペイン艦から敵であるはずの負傷者をすくいだしたこと。またこれは勇気というよりもやや軽率な部類に属するが司令官みずから敵艦を捕獲すべくむかったこと、などである」

火災に関して
>「アメリカの軍艦のほとんどは黄海海戦のあとで艤装された新型のものである。当然、右海戦の戦訓がとり入れられ、火災については十分の配慮がなされている。つまり木材の部分がすくない。このため小火災のおこったのはアイオワ一艦のみである。これにひきかえスペイン軍艦は敵にくらべてやや旧式で、造作に木材をつかっている部分が非常に多い。さらには蒸気管がやられた艦が多いが、それはそれについての十分な保護が構造上なされていなかったためである」
>「黄海海戦の戦訓にかんがみて火災のおそるべきことはスペイン海軍も知っている。このため出港前に木材の家具や部分を海にすてたが、しかし元来の構造上木材が多かったからどうすることもできなかった」





星亨の代わりに小村寿太郎が配属される。夫人を伴わず、小村家書生の工学士枡本卯平と、料理人兼執事の宇野弥太郎の二人を連れて渡米した。小村は駐米公使に着任したが、かつて米国に留学したことがあった。小村は明治8年大学法学科本科生徒として在学中、文部省留学生としてハーヴァード大学の法学部に入学。明治10年23歳で同大を卒業、3年間ニューヨークの法律事務所で働き実務を習った。米国人は対外的には名誉と義侠心に富んでいるといったような印象が強い。小村も留学中に不愉快な思い出はなかった。それから18年を経て駐米公使として着任するに至ったわけだが、米国にはカリフォルニア州の日本人移民の排斥問題のような点があった。小村は、カリフォルニア州移民問題は外交の力では到底解決できない、と絶望的になっていた。その一方、米国知識層の間で知日気分が盛り上がりつつあり、小泉八雲の著作に人気があって、新渡戸稲造の「武士道」もベストセラーになっていた。


小村の年譜
明治29年42歳、鮮においてロシア公使と接触し朝鮮についての協定をおえる。外相大隈重信のもとで外務次官。
明治30年43歳、陸奥宗光死。ドイツ艦隊膠州湾を占領。
明治31年44歳、9月13日付でアメリカ駐箚特命全権公使に任ず。
明治33年46歳、ロシア駐箚公使を命ぜらる。
明治34年47歳、9月21日、外務大臣に任ぜらる。
明治35年48歳、1月30日、日英同盟締結。

>外務次官から駐米公使、そのまま駐露公使、ロシアに赴任する途中ロンドンに寄り英国の外交事情を観察しつつモスクワに行き、ついで外務大臣就任、さらに日英同盟締結、というこのわずか数年間での小村の足どりは、そのまま明治三十年代の日本の運命の骨格をつくりあげたものといっていい。


言行録
>「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のためにあつまった徒党である。主義もなければ理想もない。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷想からできあがった一種のフィクション(虚構)である」
>「藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体がない」
>「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどうころばせてしまうかわからない。将来、日本はこの空(うつ)ろな二つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう」
>「自分は国家だけに属している。いかなる派閥にも属しない」
>「正直は最上の政策である、といったワシントンが、おれにはたれよりもえらい政治家だったようにおもえる」
>「かれは独立戦争の党派争いのなかにあってただひとり超然とし、米国主義をかがげた。米国以外にかれの関心はなかった。またかれの外交はうそをつかない。他国もついにワシントンはうそをつかぬということを信ずるようになった。うその外交は骨がおれるし、いつかはばれるが、つねに誠をもって押し通せばたいした知恵もつかわずにすむ。外交家としてもワシントンは偉大である」
>「日本の光は、武士根性である」
>「おなじ東アジア人でもシナの長所は商人根性である。これもすぐれている。この両民族が協同し、その長所が生かされれば、はじめて東アジアに平和がくるし、人類の幸福が保障される」


京釜・京仁鉄道敷設権問題について。日清戦争のはじめのころに日本政府は朝鮮政府からこの権利を得たが、戦後さまざまの事件で実現化しなかった。国力、技術能力、民間資本力が貧弱で、国内でさえ一部幹線の他はろくに鉄道もなく、それを敷くにも外国人技師を呼ばねばならず、外国で鉄道を敷くなど難しい状態だった。日清戦争が終わって2年目に米国人のモールスという者に売ってしまった。明治29年秋、小村はこれを買い戻すべく八方に奔走した。大江卓らを説いて民間で「京仁鉄道引受組合」というものをつくらせた。権利買収のために金が180万円必要だったが、これを政府が元利保証をするという所で頓挫した。そのうち政変があって、小村は第三次伊藤内閣で西徳二郎外相のもとで次官をつとめることになったが、組閣早々に末松謙澄の私邸にいた伊藤を訪ね、例の件について説得した。伊藤は、それほど大きな国庫負担になる案件を議会に諮らずに政府の手でやるというのは違憲で、憲法の起草者たる立場の者が意見をやるわけにはいかない、と答えたが、小村はディズレーリのスエズ運河株買収を例に挙げて伊藤を説得し、結局これが叶った。

>「そもそも立憲政治とは責任政治のことでありましょう。国利民福になることなら国務大臣が責任を負って断行すればいいので、いちいち議会にはかることだけが立憲政治じゃありませんよ。げんに憲政の本家である英国はどうです。かつてディスレリーが電話一本で一夜のうちにスエズ運河の株を買いしめ、四十五万ポンドという大金を支出して運河の管理権を英国の手に収めたではありませんか。時に議会は休会中で、その再開を待って事をやれば機会は永久に去るということでそれをやったのです。」


小村は真之にイロコワ族の例を挙げ、英国はシナの利権をロシアとフランスがおかそうとしている今、東アジアのイロコワ族を探しており、日本がそれにならざるをえない時期がきている、と話した。

イロコワ族について。17世紀後半、英と仏が北米の領土と利権を争っている。共にインディアンと敵対する立場であるが、これと直接争うことはしない。インディアンは多数の種族に分かれて抗争している。これを研究し、利用する。一方に利を与え他方と戦わせる。彼らは部族愛が強く、敵を強く憎み、名誉心に富み、戦いを好む。そして一旦戦いを始めれば互いに滅ぶまで戦いを止めない。彼らは銃器と強い酒を喜ぶ。彼らにはとめどなくこれらを与える。英国人はイロコワ族が最も勇敢で侠気に富んでいることを知り、これに利を食らわせて同盟し、北方では仏軍を防ぎ、西部はインディアンを平定させる。17世紀後半には180万人いたところ、2世紀経った今では煙のように消えてしまった。





このとき、フィラデルフィアの造船所で枡本卯平という日本人が、ロシアのワリャーグとレトヴィザンの造船に参加していた。日本海軍にとって、ロシア軍艦の性能や構造等はその年々の海軍年鑑をみれば分かることであるため、枡本は特にスパイというわけではなく、純粋に造艦技術を学んでいるのみであった。しかしその練習艦がロシア戦艦というのは(単純に)面白い巡り合わせだった。

枡本は小村の書生。小村の同郷人で、小村を頼り上京、小村の書生になり第一高等学校へ通い、大学は造船科へ。在学中に実習生として長崎の三菱造船所で働き、常陸丸の建造に参加。小村のアメリカ赴任の直前に卒業し、三菱入社を考えていたが、小村にアメリカへ誘われて同行。旅費は三菱が出してくれた。小村は合衆国独立記念祭に招かれ、フィラデルフィアへ行った時に、クランプ造船所社長チャールズ・クランプと会い、枡本の入社を頼んだところ、引き受けてもらえた。この社長は徒手空拳からの叩き上げで工場主になったらしい。ユダヤ人らしい。枡本が紹介状を持って社長に会って話したところ、工場の各部に半年ぐらいづつをかけて周りなさい、と言ってもらえた。枡本の下宿の世話を真之がしたらしい。枡本はヘーグというドイツ系アメリカ人の造船技師の許で下宿した。最初に製図場の軍艦部に配属され、数ヵ月後に職工として現場に配属された。

工場は戦場のようであったという。

>真赤に焼けた腕ほどの長さの鋲(リベット)が、鉄砲玉のように頭上を飛んでゆくことはしょちゅうであり、あるときはつるされた鉄板がまっすぐに落ちて行って下にいた職工の顔を目も鼻もなく削いでしまったことがあり、枡本が高い鉄架の上で働いていると、目の前を人間がまっさかさまに落ちてゆのも見た。
>「十人がひとかたまりになって高い所から落ちて行ったりしたこともある。腕を折ったり、手を切りおとしたりするくらいのことは毎日何度あるか知れない」

職工は日給が1ドル40セント、下宿料が週に5ドルではあるものの、5セントでビールが存分に飲めて、セットで出されるものが十分昼飯や晩飯の代わりになった(ビーフ、ハム、サンドウィッチ、ビスケット、チーズなど)。労働者も陽気なのだという。





人名
マッキンレー米国大統領(米西戦争時の大統領)、米国海軍卿ロング(米西戦争時の海軍卿)、柴五郎(米西戦争観戦武官)、有馬良橘(日露戦閉塞作戦関連)、東郷平八郎(日露戦閉塞作戦関連)、広瀬武夫(日露戦閉塞作戦関連)、スペイン艦隊セルベラ少将、米国第二艦隊司令官シェライ代将、米国艦隊サムソン少将、マハン(「海上権力史論」関連)、ハワード卿(アルマダ海戦、英国司令長官)、ドレーク(アルマダ海戦、英国将軍)、ホーキンズ(アルマダ海戦、英国将軍)、バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー(日露戦争関連)、米国海軍技師機関科士官R・P・ホブソン中尉(閉塞作戦を指揮)、米国海軍チャドウィック参謀長(サムソン少将の参謀長)、米国陸軍シャフター少将(サンチアゴ要塞攻撃)、インファンタ・マリア・テレサ乗組士官アザール少佐(真之の米西戦争に関する質問に回答)、星亨(公使)、成田勝郎(海軍武官中佐)、小村寿太郎(公使)、枡本卯平(造船技師で小村の書生)、宇野弥太郎(小村の料理人兼執事)、モールス(米国、京釜・京仁鉄道敷設権問題)、伊藤博文(第三次伊藤内閣)、ディズレーリ(小村の話の中に出た)、加藤高明(小村の外務省の同僚)、ワシントン(小村の話の中に出た)、小泉八雲(当時米国で著作が流行った)、新渡戸稲造(「武士道」の著者)、クランプ造船所社長チャールズ・クランプ(枡本卯平が世話になった)
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