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坂の上の雲 2-8 「外交」

「外交」

日英同盟に関する章。

日露戦争に負けた場合、朝鮮がロシア所有になっていたことは疑うべくもなく、日本は国をとられることはなかったであろうにせよ、償金の支払いで産業は昭和中期までは停頓、北海道を取られ、敦賀港と対馬一島は租借地になったに違いない、とある。

ロシアの南下政策や極東侵出はヨーロッパ外交界を刺激していたが、日本政権担当者はそこまで敏感ではなかった。英国は「極東の勢力均衡」を図るべく外交手段を模索する時期にあった。このころドイツは膠州湾一帯へ侵出し青島に要塞を作っており、ロシアの極東侵出の件に関しては利害があり、英国としては英独同盟というのも模索するものの一つだった。また、このころ英国は南阿(ボーア)戦争に忙殺されていた。

ドイツの駐英代理公使であるヘルマン・フォン・エッカルトシュタインが、英国植民大臣ジョセフ・チェンバレンに「英独」同盟をささやく。さらにはエッカルトシュタインは、日本の駐英公使である林董を訪問して「英独日」同盟を提案する。日本の外務省がドイツの駐日公使のウェーデルにこのことを話す。ウェーデルが本国のベルリンに問い合わせたところ、全く知らない話とのことだった。一方英国のチェンバレンも、ドイツの皇帝ウィルヘルム二世に電報を打って直接交渉を開始したが、拒否された。ドイツとしては、ロシアはフランスと同盟している件や、英国海軍の黒海での影響力がさほどでもない件などが理由にあった。

林董は旧幕臣系。幕臣林洞海の養子。旧幕時代の少年期に横浜で英語を学ぶ。慶応2年に幕府から選ばれ菊池大麓、中村敬宇らとともに英国へ留学する。この時16歳。幕府が瓦解し、帰国を命ぜられ横浜まで帰ったとき、品川の榎本武揚の旧幕艦隊に同行して函館まで行って五稜郭にこもる。榎本が林に翻訳させて英国公使パークスに文書を送ったが、英国人の書いたものと勘違いする英文だったらしい。この時19歳。結局榎本が降伏し、林は津軽藩に預けられ青森の寺院で拘留生活を送る。官軍参謀の薩摩の黒田清隆は、林が英語が堪能であることを知って引き抜こうとしたところ、皆と共に釈放されるなら構わないが一人だけなら断ると言われる。この件によって林は薩摩閥の庇護を受けられるようになり仕事がしやすくなったという。明治24年外務次官、明治30年駐露公使、明治33年駐英公使。ちなみに秋山真之が英国駐留を命ぜられたとき、林が公使だった。

林は英国赴任前に、仮に英国同盟の話が上がったときのことを考えて、あらかじめ伊藤を訪問していた。伊藤は日露同盟論者だったが、日英同盟など夢物語のように考えていたので、同盟できるものなら構わないという返答を林にしていた。英国の東洋の利権は、中国大陸、シンガポール、インドに及び、日本にはそのような広域に陸海軍を派遣できるような国力はなく、相互安全保障の同盟を結ぶなど難しい、という考えがあった。日清戦争後の外交を仕遂げた陸奥宗光もそのように考えていた。陸奥は明治30年8月に亡くなっている。

林は英国外務省にランズダウン外相を訪問する。英国は同盟については乗り気で、上述のような経緯があったため、この時に、ドイツも含めてはどうか、と言われたが、この後はドイツに関しては特に言及されなくなった。

このころ日本では伊藤内閣が瓦解し、桂内閣が組閣していた。林の英独日同盟に関する電報を受けたのは桂内閣だった。桂は日英同盟論者で、伊藤は日露同盟論者だった。伊藤は恐露論者とまでも言われることもあった。

桂内閣は、外相小村寿太郎、内相内海忠勝、逓相芳川顕正、農相平田東助、法相清浦奎吾、文相菊池大麓。この内閣が日露戦争の遂行内閣になった。

桂に関しては、誰かが桂では貫禄がないと言った所、西郷従道が「貫禄なんぞは、大礼服を着せて何頭立ての馬車にのらせて何度か往復させると、もうそれだけでつくものでごわす。それだけのものでごわす」と言ったらしい。

林の日英同盟交渉遂行の可否を問う電報を受け、桂は元勲元老を説得する必要があった。山県有朋、伊藤博文、松方正義、井上馨である。小村は「本来、外交というものは、外交より内交のほうがむずかしいものなのだ」と言ったらしい。桂は大磯の伊藤を訪問し、日英同盟に関する理解を得た。翌日の元老会議では、相変わらず伊藤が懐疑的だったが、日英同盟で進めて行く事となった。

伊藤は独自に日露交渉を進めようと考えた。米国での用件を済ませた後、ニューヨークから汽船に乗ってフランスへ行き、パリに宿を取って、ロンドンから林を呼んだ。伊藤の意図を聞かされて林も驚いたが、日英同盟が成立寸前にあることなどを説明し、伊藤もこれを理解した。伊藤の訪露に関しては、日英同盟の交渉に有利に傾く可能性などを踏まえ、伊藤は予定通りペテルブルクへ向かった。

伊藤がペテルブルグのホテルに着いたところ、なんと大蔵大臣ウィッテが訪問してきた。翌日は外相ラムスドルフを訪問した。ちなみに前任はムラヴィヨフ伯爵といって、軍部に屈して旅順・大連を強奪するという非常外交をやった責任者らしい。ムラヴィヨフは平和外交をちらつかせ、伊藤もこれに期待感を膨らませたが、ロシア陸相クロパトキンがシベリア鉄道の完成まで開戦は避けたほうが良いということをムラヴィヨフに吹き込んでいただけのことであった。

伊藤はベルリンに戻った。日露の協商が可能のようであるから、日英同盟は調印を見合わせよ、という電報まで打ったらしい。ベルリンのロシア大使館から返答が受け取られ、日本大使館にて翻訳された。ロシアの返答は強硬で、ロシアの満州での行動は自由、日本の朝鮮での行動は制限された自由、という内容だった。伊藤の私的外交は失敗に終わった。

林はランズダウン外相から「忠告しておきますが、ロシア人というのはいつでもその盟約を反故にするという信義上の犯罪の常習者です」などと言われた。ちなみに小村は下僚に英と露の外交史を調べさせていたらしく、ロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点でほとんど常習で、英国は一度もそういう例がなく常に同盟を誠実に履行してきていた。ヨーロッパ国際政界では、ロシア人は民族としてはお人よしだが、それが国家を運営するとなると、ふつう考えられないようなうそつきになる、というのが常識であったらしい。「ロシア国家の本能は、略奪である」とも言われていたらしい。

伊藤はこの後、林に促されて英国へ渡った。林とランズダウンはお互いに譲らず討議が重ねられていたが、伊藤の件もあってか英国は同盟内容について譲歩した。明治35年1月30日に日英同盟が調印された。伊藤はこれより前にロンドンを出発し、2月25日に長崎に着いた。
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