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坂の上の雲 2-5c 「列強」 ロシア史関連

坂の上の雲 「列強」 ロシア史関連



ロシア史の紹介。

ノヴゴロド国、キエフ公国、キプチャック-ハン国、モスクワ公国、ロマノフ朝、と順に紹介。ノルマン人ヴァイキングがスラヴ人の住む地域へ進出。ノルマン人の酋長であるリューリックによるノヴゴロド国の建国(スラヴ人が他民族によって征服を受ける)。同族によるキエフ公国への統合。モンゴル人の進出とカルカ河畔の戦い(モンゴル軍対南ロシア諸侯連合軍)。タタールのくびき。抜都(バトゥ)がキプチャック国を建国。モスクワ公国のイワン三世とウグラ河畔の決戦とキプチャック国の滅亡。ロマノフ王家の成立。初代はミカエル・フォドロウィッチ、次代はアレクセイ。

ノヴゴロド国の成立は、平安時代の時期。カルカ河畔の戦いは13世紀、北条泰時が執権になった年。その13年後にバトゥがモスクワとキエフを占領。キプチャック国成立。タタールのくびきは約百年間。ウグラ河畔の決戦は、室町末期の時期。ロマノフ朝の成立は1613年、大阪の陣の時期。この時期にロマノフ朝が成立したとはいえ、西欧と比較すればまだ未開という。



ノルマン人の紹介。

>(略)古くから航海に長じ、冒険性に富み、性格は剽悍で、民族ひとぐるみが海賊というしごとにもっとも適していた。ヴァイキングとよばれる連中がそれである。
>八世紀から十二世紀という長期間にわたってヨーロッパの他の農耕・牧畜地帯をあらしまわった。東西フランクもさんざんな目にあい、アングロ・サクソンのイングランドもこの民族のために征服された。南イタリアもシシリー島も同様であり、ノルマン人はヨーロッパのほうぼうでノルマン王朝をひらき、かれら自身も被征服民族と混血し、同化し、キリスト教化し、この「かきまわし作業」によってヨーロッパというものが、人文的に渾然たる一ツ圏になる結果をつくった。

ノルマン人というのは「北方の人」という意味らしい。スカンジナビア半島やデンマークに住んでいた。ロシアに関しては、「原初年代記」にロシア建国の神話が伝えられている。スラヴ人の数多くのグループが相克しあってまとまりがつかなかったため、統治者を輸入するためにノルマンに使いを送ったのだという。そしてリューリックが最初の王となったと伝えているのだという。



ユーラシア学派の紹介。

ジンギス汗によるモンゴル帝国とロシア帝国の対比、ユーラシア学派の紹介。ついで匈奴の紹介。匈奴が活躍した時期は5世紀。匈奴とフン族を同一とする説を紹介。西欧の市民社会と皇帝の専制主義を対比。

>モンゴル種といわれる匈奴
>フン族ともいう。

>このユーラシア学派の説を極言すれば、社会史的にみたロシア人は目の青いモンゴリアン(略)
>ロシア人は、ヨーロッパ人がもったような市民社会をついにもたなかった(略)
>(略)皇帝の専制主義ということも、アジアの遊牧民族から相続したものであろう。
>おなじ白人でありながらおよそヨーロッパ的でないロシア的現実(略)



シベリア進出の動機のまとめ。

ノルマン人は武装した隊商を組む文化を持っていたが、これらは特に目立ってロシア人に採用されなかった。しかし毛皮商売には熱が入った。これにより結果的にシベリアへの進出に至った。活発になったのは16世紀ごろから。17世紀以後は国家の重要な財源となり、専売制が取られることもあった。このシベリアに生息する毛皮獣というのは、熊、狐、いたち、うさぎ、りす、黒い貂(てん)や黄色い貂など。黒い貂や黄色い貂は珍重されていたらしい。

>商業民族はそれ以外の民族にくらべてはるかに冒険的で行動力があるが(略)
>(略)ノルマン人は武装した隊商を組んでほうぼうを押しわたる機能をもっていたが、そのころのロシア人はそれから学ぶところがはなはだ薄かった。

シベリアに暮らしていたのはアジア人。元は古アジア諸民族の狩猟民族が住み、ついでツングース人(黒竜江に住む)や、ヤクート人といった遊牧民族なども土着。狩猟か漁撈がメインである。ロシア人が彼らから毛皮を買う。毛皮商人とコサックが西欧産の武器を背景に私掠。結果的にロシア領になるに至る。



中央アジアについて。

シベリアは南はアジアと接するわけだが、この微妙な国境地域に関しては北アジア領有事業と表現されている。ロシア人はモンゴル人に支配されていたのであり、中央アジアのモンゴル人の支配機構が消滅するに至った後、その支配機構と置き換わることについては、左程の摩擦が生じることがなかった、とする。



日本との接触について。詳細は省略。

>(略)カムチャッカ半島に達し、さらに千島列島に南下し、占守、幌筵の両島を占領し、いよいよすすんで得撫島以北の諸島を侵したとき、はじめて日本と接触した。一七一一年、わが国の正徳元年、六代将軍家宣の治世、日露戦争からほぼ二百年前、新井白石が活躍していたころである。

1711年にコズィレフスキーとアンツィフェーロフが占守島に上陸。当時はロシア人を指して赤蝦夷と呼んだ。



ピョートル大帝のまとめ。

ピョートルの生い立ちについて。学習は嫌い。機械いじりが好き。機械類や鉄砲を分解しては構造を調べる。16歳のときに造船所で働く。ちなみに11歳で既に帝王として即位している。航海術も学ぶ。鉄砲に関しても職工として製造法を学ぶ。更には射撃法も身につける。23歳のときは、トルコとの戦いで自ら砲手として戦った。帝王でなければ、一流の技師、あるいは一流の船長、あるいは一流の砲兵士官、という様子だったらしい。

ピョートル大帝による西欧文化の輸入。ロシア近代化の祖。時期は元禄から8代吉宗の中興期。日本は鎖国、ロシアも西欧と比して半開国に等しかったらしい。島津斉彬や鍋島閑叟(肥前佐賀藩)と対比。更にはこの二人が登場するのはピョートルの150年ほど後になる。ピョートルは、人文の教養がある、というタイプではなかったらしい(前述の二人は教養があった)。

当時はイギリスとオランダの造船技術が秀でていた。25歳のときに、宮廷政治家を中心に150人の団体を組み、自ら西欧見学旅行を行う。岩倉具視の見学団と対比する(これは200人)。ピョートルはオランダではザータム造船所に一職工として入り込み(当然皇帝である旨は秘匿)、「大工のピーテル」という変名で職長にどなられながらも働いた。全長100フィートの船の建造の最初から参加し、竣工までやった。

>室内でも痰をはき、つばをはき、酒をのむと集団発狂したように乱暴になり、カーテンをひきちぎったり、家具をこわしたりした。ピョートル自身がそのこわし屋の大将であった。

ピョートルは帰国してから、ひげを生やしている者に課税したりもした。貴族の服装を西欧風にさせた。学校をつくり、産業を興した。



専制君主について。

ピョートルの西欧文化の輸入が速やかに行われたというのは、ツァーリという君主専制の制度によるものであるという。日本と対比し、日本には君主として絶対権を自由に行使できた人物はほとんどいない、とする。15世紀以降はヨーロッパでも日本でもロシアのような専制君主制が成立することはなかった、とある。

ここでアレクサンドル三世とニコライ二世のときの蔵相であるウィッテの評が引用される。まず、全国民の35パーセントの異民族を抱えるロシアには、独裁制、絶対君主制が最善の政体であるとする。次に、ウィッテはアレクサンドル三世を賞賛し、ニコライ二世を酷評している。
>普通の頭脳でも独裁政治はりっぱにやってゆける
として、プロシャのウィルヘルム一世を挙げている。ニコライ二世の教養はアレクサンドル賛成のそれを凌ぐものであったが、理想的独裁君主に必要な素質というものはまた別である。それをアレクサンドル三世は持っており、ニコライ二世には欠けていたのだという。



アレクサンドル三世について。

>(略)次子であったために帝王学の教育を受けず、一軍人として教育された。
>(略)将官級の軍人でなく、佐官級の軍人に適していた。
>(略)長兄の死とともに皇位継承者になり、やがて父帝が暗殺されたために、ロシア皇帝になった。

>アレクサンドル三世の治世には、ロシア的資本主義がほぼ完成し、西欧なみにブルジョワジーという富裕階級も出来、同時に年労働者が社会の大きな存在として登場し、成熟し、ロシア的専制体制に大きなくるいが生じはじめていた。

>かれはロシアの貴族階級が、ちょうど江戸末期の旗本階級の零落とおなじように没落しかけているのをふせぎ、貴族の封建的特権を擁護しようとしたり、大学の学生問題に手をやき、教育制度を変えたり、大学の自治をうばったりした。



ニコライ二世について。

24歳、皇太子だったときにウラジオストックのシベリア鉄道の起工式に参加するため、ロシア艦隊にて極東に来航。ついでに日本も訪問した。おいに当るギリシャ国のジョージ王子23歳も同行していた。明治24年5月11日、琵琶湖を見物した。その帰路に、津田三蔵という三重県士族出身の巡査によって斬りつけられるという事件が起こった。ニコライ二世は、日本人医師による治療を拒否し、京都に急行してロシア医官の治療を受けた。ニコライ二世にとっては、日本はそのような事があった国であった。



対馬租借未遂事件についてのまとめ。

シベリア進出は毛皮商の件が発端ではあったが、時代を経て、不凍港を得るという目的が新たに増えた。南下政策という。1858年にウラジオストック(浦塩)を清国から譲り受けた。東を征服せよ、という意味がある。清に対する侵略行為に関しては、独立国であり文明国であることから、他の欧州諸国が老巧な手段を用いたが、比較してロシアのそれは露骨であったという。

1861年、対馬がロシア軍艦によって占拠された。当時「極東を争う者は、英国とロシアである」と言われていたという。英国とロシアは対馬に執拗な関心を寄せた。

>沿海州とウラジオストック港を得てこれに一大海軍基地をロシアは作ろうとしているが、対馬で英国に塞がれることによって、せっかく制圧下におこうとしている日本海は、ロシアにとってダム湖になってしまい、ウラジオストックの艦隊が南下してシナへゆきにくくなる。

1861年2月、ロシアは外交官コスケウィッチを通して幕府に対して、英国は対馬侵略の野心があるからロシアが協力する、というような話を持ちかけたが、断られた。

>ビリレフという男を艦長とする軍艦が二月三日、対馬へあらわれ、尾崎浦に投錨し、十二日、大船越の番所付近に陸戦隊を上陸させ、番所の小者安五郎という日本人を射殺し、さらに番所にいた郷士二人を捕虜にし、番所に置いてあった武器や物品いっさいを略奪し、村へ押し入って牛七頭ほか金品をうばい、軍艦にひきあげた。
>対馬は、宗家十万石の藩で、厳原(府中)を城下としている。
>ロシア軍艦はこの対馬のその碇泊地付近を占領したまま去らず、対馬藩ではこれに対し退去方を交渉したが、ロシア側は相手にしない。
>ロシアが占領している近辺の村々は、ロシア水兵の掠奪暴行にたえかね、村をすてて山中に入り、野宿した。対馬藩は江戸へこの暴状を急報した。

5月に入ってから幕府から交渉役の小栗上野介がやってきた。5月10日にビリレフと面談した。ロシアは、幕府代表よりむしろ対馬の島首(藩主)に面談したい、などと言って話はまとまらなかった。小栗は一旦江戸へ引き返した。小栗の対馬滞在は二週間ほどだった。その間にロシアは、対馬藩の交渉役である家老仁位孫一郎と交渉。ロシア側の要求は以下。

>昼ヶ浦から芋崎までの土地を租借
>牛島から大船越までの浦々はロシア帝国の警備地にする
>他国人がきても、相手になってはいけない。ロシア人がその相手をする

その代わりに朝鮮を奪って対馬藩にくれてやるなどと話したらしい。その他、交渉に当ってはかなり出鱈目なことを並べていたらしい。

>このことはさきに英国からも将軍家にねがい出ている(筆者註・うそである)。江戸役人はロシアに好意的で、かれらのいうのに対馬藩さえかまわなければどうこうといっている(筆者註・これもうそ)。
>英国人の本意は、対馬を借りうける上は対馬の日本人を追い出すつもりだ(筆者註・根拠のないこと)(略)

結局この事件は英国の要求によって事なきを得たらしい。

>この結着は、駐日英国公使がその艦隊勢力を背景にロシア側に抗議し、軍艦の退去を要求したことによって落着した。



ロシア史年表

862 ノヴゴロド国建国
882 キエフ公国建国
1223 カルカ河畔の戦い
1236-42 バトゥの西征
1243 キプチャク-ハン国建国
1462 イヴァン三世即位
1480 モスクワ公国が独立
1502 キプチャク-ハン国滅亡
1613 ミハエル=ロマノフ即位
1645 アレクセイ=ミハイロビッチ即位
1682  ピョートル大帝即位
1689 ネルチンスク条約
1711 コズィレフスキーとアンツィフョーロフが占守島に上陸
1721 サンクト-ペテルブルク建設
1727 キャフタ条約
1853-56 クリミア戦争
1858 璦琿条約
1860 北京条約
1875 千島樺太条約
1877-78 露土戦争
1878 サン-ステファノ条約
1881 イリ条約
1881 アレクサンドル三世即位
1891 シベリア鉄道起工式
1894 露仏同盟
1894 ニコライ二世即位
1895 三国干渉
1896 露清密約
1898 旅順大連租借条約
1900-01 義和団事件
1904-05 日露戦争



日露戦争関連年表

1894年(明治27)8月1日 - 1895年(明治28)4月17日 日清戦争
1894年(明治27)11月1日 ニコライ二世即位
1895年(明治28)4月17日 下関条約
1895年(明治28)4月23日 三国干渉
1896年(明治29)露暦5月14日 ニコライ二世戴冠式
1896年(明治29)6月3日 李鴻章-ロバノフ協定(露清密約)
1897年(明治30)11月1日 鉅野事件
1897年(明治30) ドイツが膠州湾を占領
1898年(明治31)3月6日 ドイツが膠州湾を租借
1898年(明治31)3月27日と5月7日 旅順大連租借条約
1899年(明治32)6月9日 イギリスが九龍半島・威海衛を租借
1899年(明治32)11月16日 フランスが広州湾一帯を租借
1900年(明治33)ごろ - 1901年(明治34)9月7日 義和団の乱(北清事変)
1900年(明治33)11月 第二次露清密約
1902年(明治35)1月30日 日英同盟
1904年(明治37)2月8日 - 1905年(明治38)9月5日 日露戦争
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