Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://tameblog.blog5.fc2.com/tb.php/726-a98a5a34

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

坂の上の雲 2-5a 「列強」 三国干渉~関東州租借

坂の上の雲 「列強」 三国干渉からロシアの関東州租借まで



【検証】

1894年(明治27)8月1日 - 1895年(明治28)4月17日 日清戦争
1894年(明治27)11月1日 ニコライ二世即位
1895年(明治28)4月17日 下関条約
1895年(明治28)4月23日 三国干渉
1896年(明治29)露暦5月14日 ニコライ二世戴冠式
1896年(明治29)6月3日 李鴻章-ロバノフ協定(露清密約)
1897年(明治30)11月1日 鉅野事件
1897年(明治30) ドイツが膠州湾を占領
1897年(明治30)12月18日 ロシア東洋艦隊旅順港入港
1898年(明治31)3月6日 ドイツが膠州湾を租借
1898年(明治31)3月27日 旅順大連租借条約(旅大租借条約)(小説内では15日)
1898年(明治31)5月7日 続訂旅大租借条約
1899年(明治32)6月9日 イギリスが九龍半島・威海衛を租借
1899年(明治32)11月16日 フランスが広州湾一帯を租借
1900年(明治33)ごろ - 1901年(明治34)9月7日 義和団の乱(北清事変)
1900年(明治33)11月 第二次露清密約
1902年(明治35)1月30日 日英同盟
1904年(明治37)2月8日 - 1905年(明治38)9月5日 日露戦争

【今日は何の日】1898年:ロシアが旅順を租借
日露関係のエピソード(3)満州とハルピン
大連の都市発展計画
日清戦争 関連年表
・wikipedia 三国干渉
・wikipedia 李鴻章
・wikipedia 露清密約
山川出版社高等学校用世界史教科書の記述の変遷
・wikipedia 大連市
・wikipedia 関東州
アカシアの街--大連・旅順

「遼東半島南部=関東州」は疑いない。おそらく「旅順・大連」=「遼東半島南部=関東州」と思われ。大連は当時ただの漁村で、大連を発展させたのはロシアであり、これを日本が引き継いだ、という具合らしい。



清は日本に敗れた。その政府大官の亡国的な怠慢さ、無気力さ、兵士たちの清国に対する忠誠心の欠如などが顕わになった。列強の外交専門家も薄々感じていたのかもしれないが、それでも意外な程だった。

日本は日清戦争の結果、二億両(テール)の賠償金と、台湾・澎湖島・遼東半島の領土を得た。講和条約は明治28年4月17日に行われた。一週間も経たぬ内にロシア・ドイツ・フランスが連名で、遼東半島を放棄するよう要求してきた。この要求を呑まない場合、ロシアは戦争を始める雰囲気であるということが、駐露公使官である西徳二郎から伝えられた。ちなみに当時のロシアの駐日公使はヒトロヴォーという。日本の外相は陸奥宗光。



ウィッテという人物がいる。アレクサンドル三世とニコライ二世に仕えて大蔵大臣や総理大臣をつとめた。坂の上の雲において、日露戦争に至るロシア側の経緯については、ウィッテの評を引用するところが多い。回顧録のようなものがあるらしい。



明治30年8月にロシアのペテルホフの避暑地で、ドイツ皇帝とロシア皇帝が会合し、離宮の一室にて密談が行われた。
>「ドイツは、アジア艦隊の根拠地として膠州湾をほしいとおもっているが、貴国にご異存があるだろうか」
>「ロシアは、天津以南の地にはいまのところ欲望を感じていない。ここではっきり申しあげておくがロシアにとって重大な関心は、旅順から鴨緑江にいたる地域に集中している」
>「もしも、である。ドイツが膠州湾を占領するようなことがあれば、貴国は如何」
>「異存はない。むしろ歓迎する。いまロシアの対アジア政策をいたるところで妨害しているのは英国である。これに迷惑している。ドイツが来てくれればむしろ、ロシアにとって有利かもしれない」



ドイツの膠州湾事件が起こった。その電報が露都ペテルブルグの外務省に入ったとき、すぐに御前会議が開かれた。メンバーは大蔵大臣ウィッテ、海軍大臣トゥイルトフ、陸軍大臣ワンノフスキー、外務大臣ムラヴィヨフだった。ウィッテ以外の三人は旅順・大連を占領すべきである旨を主張した。ウィッテは反対した。



ウィッテは大蔵大臣であったが、外交問題にも強い発言権をもっていた。日清戦争の前後においては、ロシアの極東に関する諸問題は大蔵大臣であるウィッテの管掌に属していた(ウィッテ自身がそのように語っているらしい)。帝政ロシアにおいては大蔵大臣は大きな権限を持っていた。外務大臣の仕事はヨーロッパとの交際であり、大蔵大臣が極東を管掌する。それはつまり極東とは財産になりうる土地ということであるらしい。極東とは中国、朝鮮、タイ、日本などを指す。

シベリア鉄道に関しても、交通大臣というものがいるにもかかわらず、その建設と運営の初期においては大蔵大臣ウィッテの管掌だった。アレクサンドル三世の命令により、そのようになった。

>皇帝の命令は、あらゆる法律や法規に先行する。

>「シベリア鉄道を建設してヨーロッパ・ロシアとウラジオストックをむすぶことは、先帝アレクサンドル三世がとくに私に委任された事業である」

ニコライ二世の治世下に至っては、シベリア鉄道に関する技術的な仕事のほとんどは交通大臣に譲られた。技術的な仕事というのは、鉄道の敷設や運営といったもので、財務面や沿線の行政面については尚も大蔵省の領分に属していた。

この交通大臣というのはヒルコフという人物で、かつて鉄道局長をやっていた。交通大臣にはウィッテが推薦したらしい。

ヒルコフについて。近衛連隊の一仕官だった。侯爵で、トゥヴェルカスヤ県に世襲の領地を持っていた。農奴解放が行われた時、その田地をみな百姓たちに渡して、ヒルコフはロシアを捨ててアメリカへ渡った。ヒルコフは一労働者になり、鉄道につとめた。最初は工夫になった。ついで機関士の助手になった。さらに機関士になった。そのころロシアにおいて鉄道の大々的な敷設が始まっていたおり、ヒルコフがたまたまロシアに戻ったところを、政府に見込まれて鉄道局長になった。

>当時のロシアの鉄道技術の段階が、この侯爵の略歴でわずかに想像できる。

シベリア鉄道の件もあり、ウィッテは極東の地理、歴史、政治情勢について、いかなる大臣よりも詳しかった。外務大臣や陸軍大臣よりも詳しい。

>「この当時のロシアの政治家の通弊として、極東についてなにも知らない。たとえばシナの国状とか、シナ、朝鮮および日本などの地理的情勢やらそれら諸国の相互関係などについて、高官たちを見わたした」ところ、いっこうに知っていそうにない」
>「もし前外相ロバノフ侯爵にむかって、満州とはどういうところか、奉天、吉林はどこにあるかなどを質問したところで、かれは中学二年生程度の回答しかできないであろう」

それにもかかわらずロシアの極東の出先機関の鼻息は荒い。

>(略)日清戦争が勃発したときも、ウラジオストックにいたロシア軍団は、どういう目的か、にわかに戦闘態勢をととのえ、国境を超えて満州の吉林にまで進出し、そこで進駐しつつ事態を観望した。



ウィッテの極東観について

>簡単にいえばウィッテは銀行家の代表であり、その立場からいえば、
>「日本との戦争は、ロシアになんの利益ももたらさないばかりか、害のみである」
>という考え方をとっている。

要旨は、戦費の浪費でロシア財政が疲弊する、海を隔てて列島を支配するというのは困難、単一民族が人口多く居住し治めるのに手を焼く、米以外の産物がなく資源もない、など。

帝政秩序維持への危惧
>すでにロシアにおける反帝政主義運動は、ロシア的矛盾のなかで癌のようにはびこっている。戦争ほど人心を投機的にさせ、社会の既存秩序をゆさぶるものはないが、この時期、ロシアがもし対日戦争をおこせば、帝政秩序はたたではすむまい。
>ウィッテはすでにロシアの社会主義勢力がどこまで来ているかを十分に察していた。もし兵士に厭戦気分がおこれば戦いに負けるばかりか、負ければ後方のロシア社会は変質する。あるいは帝政は倒れるかもしれない、という危機感をもっている。

逆に戦争は帝政に有利とする論者の論拠
>大いなる外征軍をおこして連戦連勝すれば、人民の関心は一挙に戦争のほうに集中し、人民の国家への随順心も大いに高まるであろう、(略)

対極東外交
>「シナはいまの現状にながく停滞させなければならない」
>「停滞させるためには、いろいろな手段が必要だが、ひとつはシナの側に立ってその領土と独立を保全してやらねばならない。その独立をおびやかすようなことはすこしでもしてはならない」

三国干渉関連
>「もし日本が返還をしぶるなら、日本のある地点を砲撃するくらいのことは、やむをえない」



【検証】 露清密約について

旅順・大連に関する閣議にて
>「シナへの背信ではないか。露支条約はどうなるのだ」
>露支条約というのは、日清戦争のあとでむすばれた。シナを日本の侵略からまもってやる、という条約である。

露支条約について
>ウィッテは、露支条約を締結するためのこの期間、李鴻章と折衝を大いに深めたが、(略)

ニコライ二世戴冠式に李鴻章も参加した。ウィッテはペテルブルグで李鴻章に会った。戴冠式はモスクワで行われた。ウィッテは李鴻章と張蔭桓に賄賂を贈った。北京駐在財務官ポコチロフに電報にてそれを命じた。李には50万ルーブル、張には25万ルーブル。

ウィッテの李鴻章評
>「かれは私の見た偉人中の偉人である。かれはヨーロッパ風の学者ではなかったが、シナにおいては大学者であった。そのうえなお尊敬すげきことは、明敏な頭脳と常識の発達していることである」

李鴻章の政治哲学
>「私がむかし直隷省の総督であったころ、管内で流行病が猖獗して毎日――毎日である――何千人という死者が出た。しかし私は皇帝に対してそれを報告せず、管内は平穏無事で民衆は生を楽しんでおります、という報告ばかりしていた。どうせ救いようのないことを、いくら報告したところで君主の心を悩ますだけのことではないか」

露支条約というのは、どうやらwikipediaにいう露清密約(1896年6月3日)のことを指しているようだ。



例の膠州湾事件を受けての御前会議に戻る。

旅順・大連の案に関しては、ウィッテは反対だった。

外相、陸相、海相は旅順・大連を取る重要性を指摘した。もっとも海相は、海軍根拠地ならば朝鮮のどこかの方が大洋に近くて良い、とも話した。陸相は外相を応援した。ニコライ二世は外相の意見を採用した。

>海軍大臣というのはどの国でも、海軍だけの技術的なことしか発言しない。
>それに対し、多くの国の陸軍大臣が対外強硬論者でありがちなように、この当時のロシア陸相ワンノフスキーもそうであった。

1897年(明治30)12月18日に陸軍部隊を乗せたロシア海軍が旅順・大連に入り、上陸し、占領した。



1898年(明治31)1月1日にロシアの陸軍大臣が交代し、クロパトキン将軍が就任した。ウィッテは旅順を放棄する方向に話が進むことを期待したが、逆の展開になった。最初の閣議において、旅順といっても港だけのことであって、これらを守る際には要塞化されていることが望ましく、そのためには遼東半島が必要であるから、シナにそれを要求すべきである、という主旨をクロパトキンは主張した。結局これが採択された。

清国において独裁権を持っていたのは西太后だった。この時期、西太后は北京郊外の別荘地に居た。既にイギリスと日本の外交筋から手が入っていて、ロシアの要求は認められなかった。イギリスと日本が清を保護するというような話を聞かされていたらしい。しかしロシアには露支密約というものがあった。結局西太后にロシアの要求を認めさせるに至った。ロシアは旅順と大連を租借した。明治31年3月15日に調印された(リンク先では27日)。

旅順要塞と旅順艦隊の建設は総計9千万ルーブルという予算外の巨額な非常支出であったが、ウィッテはこれを捻出した。

ちなみに日清戦争においては旅順は一日で陥落した。ウィッテによれば、シナ人がつくったおもちゃのような要塞、ということらしい。



坂の上の雲関連サイト
『坂の上の雲』と公文書

wikipedia
露清密約
・東清鉄道(中東鉄路)(北満鉄路) 満州里 - ハルビン - 綏芬河
旅順大連租借条約
・東清鉄道・南満州支線 ハルピン - 長春 - 大連

wikipedia
軍事同盟、協商、平和条約(講和条約)、休戦協定降伏
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://tameblog.blog5.fc2.com/tb.php/726-a98a5a34

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。