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坂の上の雲 2-5b 「列強」 北清事変とロシア

坂の上の雲 「列強」 北清事変とロシア



1894年(明治27)8月1日 - 1895年(明治28)4月17日 日清戦争
1894年(明治27)11月1日 ニコライ二世即位
1895年(明治28)4月17日 下関条約
1895年(明治28)4月23日 三国干渉
1896年(明治29)露暦5月14日 ニコライ二世戴冠式
1896年(明治29)6月3日 李鴻章-ロバノフ協定(露清密約)
1897年(明治30)11月1日 鉅野事件
1897年(明治30) ドイツが膠州湾を占領
1898年(明治31)3月6日 ドイツが膠州湾を租借
1898年(明治31)3月27日と5月7日 旅順大連租借条約
1899年(明治32)6月9日 イギリスが九龍半島・威海衛を租借
1899年(明治32)11月16日 フランスが広州湾一帯を租借
1900年(明治33)ごろ - 1901年(明治34)9月7日 義和団の乱(北清事変)
1900年(明治33)11月 第二次露清密約
1902年(明治35)1月30日 日英同盟
1904年(明治37)2月8日 - 1905年(明治38)9月5日 日露戦争



列強が争って土地や利権(例えば鉱山の開発権)を得て、鉄道を敷き、大量の商品を流入させる。中国の経済社会が混乱する。商品の流入は農民の副業を奪い、鉄道や河川の汽船便は船頭や飛脚を失業させる。

シナでは義和団が蜂起するようになっていた。拳匪(ボクサー)ともいう。各地の暴動が義和団運動に吸収されていく。暴動の範囲が広くなる。スローガンは扶清滅洋で、攘夷団体であり、宗教団体でもある。白蓮教という(土俗の迷信宗教とある)。武器は拳を用いる。指揮者以外は刃物を用いない。各地で外国人を襲い、外国商社を焼き、鉄道を壊し、電信所を襲う。いつか流民のみならず小地主階級が加わり、中央政府や地方政庁が応援するに至る。
>「(略)ロシアやドイツが先鞭をつけた土地掠奪や権益強奪が導火線になったのだ」

>北シナでは連年天災がつづいている。黄河や淮河がはんらんして田畑をながし、農民は流動した。イナゴの害もあった。農民は土地を離れた。
>渦をなして移動し、それが義和団になって外国人の土地、建物、施設をおそった。



ナショナリズムに関して

>侵略は、それ(ナショナリズム)を刺戟する。侵略とは単に他民族の土地に踏みこむという物理的な行為ではなく、その民族のそういう心のなかへ土足で踏みこむという、きわめて精神的な衝撃をいう。
>結局はナショナリズムを誘発し、このため一民族が他の民族の領域にふみこんで成功した例は、歴史のながい目でみればきわめてまれである。結局は、報復される。

民族にはナショナリズムというものがある。

>ところが十九世紀のヨーロッパ人は、
>「中国人にはナショナリズムがない」
>とみた。

>そのために軽悔した。(略)ナショナリズムのない民族は、いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽悔され、あほうあつかいにされる。

>が、その見定めは錯覚であった。

>なるほど漢民族は、
>「清」
>という異民族の帝国に対しては、たとえば日清戦争のときのように無自覚な怠業(サボタージュ)をしてやぶれたが、明治30年以後のロシア、ドイツ、英国などがやった土地の分捕りさわぎに対しては、これはべつであった。農民自身が、外国人の敷く鉄道のために土地をとりあげられ、外国人の商工業進出によって手工業をうばわれ、じかに被害をうけた。キリスト教の大がかりな進出も、かれらの土俗的な信仰感情を刺戟した。



>(略)ついには首都北京に入った。およそ二十万人の義和団が首都で掠奪、放火をくりかえし、ついには清国政府も公然これと手をにぎった。
>かれらは、外国公館員をも殺した。明治三十三年六月十一日には日本公使館書記生杉山彬が殺され、同二十日にはドイツ公使ケトラーが殺された。

>(清国政府が)列国に対する宣戦布告の上諭を政府軍と義和団にくだしたのである。

>北京在住の外国人はそれぞれの公館をトリデとして籠城し、救援を待った。
>が、諸外国はなにぶん本国が遠く、急には大軍を送れない。

英国と米国は日本の出兵を支持した。ドイツとロシアは難色を示した。事後の発言力に影響があるからである。

>結局は日本が、連合軍の総兵力の二万余のうち大部分を送ることになり、この連合軍に仲間入りしたことが、中国における列強の位置(ザ・グレート・パワーズ)をあらたに占めることになった。

広島の第五師団が動いた。兵站監として騎兵大佐だった秋山好古も出征した。



>「北京へ兵力を出す。が、義和団は北京だけにいるのじゃありませんからね、満州にもいる。われわれは満州にも大軍を出す。そのまますわりこんでしまう。満州は自然ロシアのものになる」

クロパトキンはウラジオストックの兵のみならず、ヨーロッパロシアからも大兵を派遣させた。シベリア鉄道で極東へ送られた。全満州を占領し、居座った。それは違法であった。

満州に関して。紀元前、漢民族は満州にいた民族を、貊(ばく)、穢(わい)(小説ではサンズイに歳)、などと呼んだ。貊は騎馬民族で、狩猟や牧畜をして暮らしていた。穢はサンズイがついているように海辺で漁撈をして暮らしていた。ちなみに日本人は倭と呼ばれた。その後、満州は漢民族の帝国の版図になったり離れたり、高句麗や扶余といった部族連合国が生まれたりした。7世紀の末の唐のころ、南満州に本拠をおく渤海帝国がうまれ、平安時代の日本と国交を持ったりした。この民族は漢民族から靺鞨(まつかつ)と呼ばれていた(渤海は遼に滅ぼされ、遼は宋と金に滅ぼされた)。民族名が女真族と呼ばれるようになった頃、女真族は金帝国を興した。その後、満州はモンゴル人の元帝国の支配下に入った。次いで元を継いだ明帝国が満州を支配下においた。満州にいた女真族は明を滅ぼし清帝国を建てた。清朝は満州を神聖視してきた。17世紀後半以来、ロシア人という今までとは全く違う異民族に満州が狙われることになった。

ロシアは(1858年アイグン条約、1860年北京条約により)既に黒竜江以北、ウスリー江以東を領土とした(外満州)。ついで関東州を租借した。義和団事件に至っては全満州を得ようとしている。



連合軍を組織したのは英、独、米、仏、伊、墺、そして日本とロシアだが、日露両軍の人数が最も多く、主力だった。8月14日に入城し、各国公館員や居留民を救出できた。

>しかし入城後にかれらがやった無差別殺戮と掠奪のすさまじさは、近代史上、類を絶している。
>かれらは民家という民家に押しこんで掠奪のかぎりをつくしたばかりでなく、大挙して宮殿にふみこみ、金目のものはことごとく奪った。

>ロシア軍は、司令官のリネウィッチ将軍みずからが掠奪にくわわった。
ウィッテは、北京駐在の財務官ポコチロフから非公式に情報を受け、それが風説ではなく事実であることを知った。

>ただし、日本軍のみは一兵といえども掠奪をしなかった。
>北京占領後、各国が市内をいくつかに分割して警備を担当したが、日本軍の担当地区ではいっさい掠奪暴行事件はおこらず、避難していた中国人もこれをききつたえてぞくぞくともどって来、復興がもっとも早かった。日本国は条約改正という難問題をかかえており、「文明国」であることを世界に誇示せねばならず、そのため国際法や国際同義の忠実なまもり手であろうとした。

欧州人に続こうとする意見も出たが、占領地の軍政長官の柴五郎中佐はこれを抑えた。柴は好古と士官学校の同期だった。また米西戦争の観戦武官としてキューバでは真之と一緒だった。

>ただしこの軍規厳守も、柴五郎がのちに他に転出するとともにくずれた。



北清事変から、居留民の生命財産の保護という名目で、清国には列強の駐屯軍が置かれることとなった。権益の保護もする。駐屯軍司令部は北京と天津に置かれた。

日本の駐屯軍の司令部は「清国駐屯軍守備隊司令部」と呼ばれ、天津に置かれた。秋山好古が司令官に任命された。明治34年の7月に「清国駐屯軍守備隊」の司令官になり、10月に「清国駐屯軍」司令官を兼ねることになった。これの前任は山根という少将だった。好古は大佐だった。

天津は明の永楽年間に初めて城郭が築かれた。

>清になってからいよいよ街は栄え、やがてここが直隷省の首府になり、直隷総督が、保定と天津の二ヶ所にかわるがわる駐まるという政治都市になったが、ほどなく開市場になり、華北における外国貿易の基地になった。居留民も多い。

>日本も列強にならってここに租界(外人居留地)というものを置いた。

>「北清事変で三井大儲け」
>という記事が、この年の一月六日付の報知新聞に出ている。三井物産は去年義和団さわぎのために損害をうけたが、その後はこの事変のためにかえって大儲けし、馬蹄銀の売買だけで百万円の利益をあげた、と。その三井の中国における根拠地も天津の日本租界にある。

明治34年は西暦の1901年であり、二十世紀の最初の年だった。



天津領事の伊集院彦吉は秋山見物と称してしょちゅう駐屯軍司令部の好古を訪れた。

>八月のはじめで、陽ざしが烈しい。土がかわき、わずかな風がふいてもそのあたりが黄色くなるほどほこりが立ち、樹木もすくない。貧弱な日本風家屋や商店、事務所のようなものが建ちならんでいるが、道幅もせまく、ぜんたいが猥雑で、欧州人の目からみればスラムのような風景であろう。
>日本租界は、土地がひくく、ひと雨ふると水があちこちにたまり、雨季には湿地帯になる。かといって下水道をつくるという智恵も金も日本人にはなかった。
>南どなりに、英国租界があり、北東はフランス租界に接しているが、そこでは石造や木造の大廈高楼がならび、道路はレンガ舗装され、街路樹が風にそよぎ、日本租界にくらべると、ひと目で文明の落差がわかる。フランス租界の北むこうのイタリア租界ですら、日本のそれよりもうつくしい。
>もっともひとつには、かれらは北清事変以前からここで町づくりをしており、作りあげるだけの資力のある商人がここに居留している。日本租界は新設のうえに、ここへやってきている連中が気のみ気のままのいわゆる一旗組がほとんどであったことによるであろう。

伊集院と好古で日本租界がきたないという雑談になったが、好古が自分の隷下の工兵に道普請させるということになった。道路を広げ、カマボコ型に排水を良くし、道の周りに街路樹を植える、といった具合。広島から工兵小隊が来て、天津に上陸し、白河のほとりで露営し、小隊長の中柴末純中尉が司令部に来た。司令部は、かつて海光寺という寺のあった所にあり、そこを中国から借りて司令部と兵舎が建てられるはずのところ、未だ急造のバラックであった。中柴が司令部に着いたが、好古は領事館にいるというので領事館庁舎へ行った。領事館の方は以前からある建物だったので、イタリア領事館ほど建物ではあった。この日の翌日に中柴中尉は係員から一切の図面を受け取った。

好古は天津在住の欧州各国の軍人や、清国の官民からも人気があった。駐留フランス軍司令部副官のコンダミー大尉は熱心なファンだった。エピソードとして、好古が副官の石浦大尉を連れているところを、コンダミー大尉が捉まえて報告すべき用件をフランス語で伝える、それを好古が聞くところまでは良いのだが、最後に日本語で返事をしてそのまま行ってしまったので、仕方なく石浦が自分の専攻であるドイツ語で好古が話した内容を通訳した、という話がある。各国司令官の親睦会でも、好古は浴びるほど酒を飲んで、会話はフランス語なのだが、返事の十度に二、三度は日本語だった。相手に対して隔意がなさすぎる、ということらしい。

天津にある日本料亭で、司令部の若い将校と北京公使館や天津領事館の若い連中が懇親会をしていた。こういう料亭にも外交将校が客として入ってくる。ドイツ将校が入ってきて靴のままで縁側を歩いて来たので、北京公使館の門田という書記官が座敷から飛んで出て、叱責したところ反抗の気構えを示したということで投げ飛ばしてしまった。柔道五段だったらしい。そして領事館警察を呼んで引き渡したという。翌日そのドイツ将校がやってきたが、庭でスキヤキを食べていた好古は、この将校を呼び入れ、杯と箸を渡し、一緒に酒を飲んで高談し、うやむやにしてしまったという。

好古が清国駐屯軍司令官として天津にいた時、袁世凱が直隷総督だった。袁は他人目にもおかしいほど好古を信頼したらしい。

好古は陸軍大学校出身者としては珍しく、軍政面や参謀本部畑に振り向けられることなく、騎兵関係の学校勤務と部隊勤務のみに用いられた。しかしこの時期だけは多少異なっていた。清国駐屯軍司令官というのは政治的な能力が必要とされる仕事で、配下に秘密情報を探る特務機関が付属していた。

どうもロシアが清国と秘密条約を結ぼうとしているらしい、という情報が入った。好古は軍司令部付の佐藤安之助大尉を呼んで、袁の元に確認に向かわせた。それほどの信頼関係が好古と袁との間にはあった。袁は佐藤大尉にすべてを話し、好古はこれを天津領事の伊集院に伝えた。外務省は攻守同盟を結んでいる英国と共に露清両国に講義して、密約を流産させた。

もっともロシアはその後も交渉を秘密裏に進めて、けっきょく密約を成立させた。

このようなことがあったので伊集院ら外交関係者から、意外な外交の才がある、といわれたりもした。

>「ヘータイの本務は敵を殺すにある。その思考法はつねに直接的で、いかにヘータイの秀才であろうとも政治という複雑なものはわからないし、わかればヘータイは弱くなる。世に醜怪なもののひとつは、兵にして政を談ずる者だ」

清国駐屯軍司令官という職務である以上、駐屯地である清国の正常を知っておかなければならないし、外交問題の責任も領事とともに負わなければならない。外交に身を入れていたわけではなく、職務にそれを含んでいた。

袁世凱について。李鴻章は明治34年に北清事変が片付くとともに病没した。代わって袁世凱が声望を高め始めていた。李は科挙を経た学者だったが、袁は落第生だった。中国には昔から官職を金で買う「捐納」というものがあり、袁はそれで官吏になった。やがて武職に転じて兵を養って軍閥を形成していった。日清戦争の後、軍隊の様式化が盛んになったが、袁はそれを担当し、軍隊勢力を背景に政界に進出し、北清事変当時には山東鎮撫という重職に就いた。北清事変の際は軍隊を留めて動かさず、清軍と義和団の潰滅後に無傷の軍隊を率い、戦後経営に乗り出した。のちに革命派と協力して清王朝を倒し、更には自分が皇帝になるべく腐心するに至る。



明治30年代の前半にミルクホールというものが流行ったらしい。店内に各紙を綴じた新聞掛けがあって、図書館にあるような長机が置いてある。牛乳を注文すると好きなように新聞を読めた。客の目当ては牛乳より新聞だったらしい。

>新聞が、よく読まれた。どの町内にも一人は新聞狂のような人物がいて、時事に通じていた。それ以前のどの時代にもまして、時事というものが国民の関心事になっていた。それほど、世界ことにアジアの国際情勢と日本の運命が切迫していたといっていい。

「露国の大兵、東亜に向ふ」
明治34年1月11日 時事新報
ロシア陸軍4万がオデッサから海路極東に向かう。
>筆者註・満州を非合法占拠するのが目的である

「まさに来らんとする一大危険・露国の満州占領は東亜の和平を攪乱す」
1月22日 万朝報

「露清密約問題に大学教授ら憤気。伊藤内閣の軟弱外交を痛罵す」
1月24日 報知新聞
露清密約はこの時まだ風説の段階ではあったらしい。

「帝国議会は、こぞって恐露病患者」
1月30日 報知新聞

「福沢諭吉逝く」
2月5日 各紙

「露清密約内容・満州は御意の儘」
2月27日 時事
例の好古が袁世凱から教えてもらった内容のことらしい。

「露国国旗を寸断々々に蹂躙」
4月6日 報知
辮髪の志士が上海の張園内のホールに集まり講義大会を開いたらしい。会長は汪康年。

「露国・満州占領を宣言」
4月8日 時事新報
ロシアの政府筋が満州占領の既成事実を公然と揚言するに至っている、という意味らしい。



ベゾブラゾフという人物がいる。ニコライ二世の寵臣であるらしい。退役した騎兵大尉であるらしい。美人で教養のある妻がいたらしく、彼女は自分の亭主が皇帝に取り入って極東の施策を進めていることを知り、半気違いの意見が容れられていると言って驚いたらしい。ウィッテ曰く、稀代のくわせもの、ということらしい。雄弁の才と、空想的経綸能力があるらしい。
>(略)帝国主義的膨張期にはどの国でもかならず登場するタイプの人間で、いわば右翼の大立者といっていい

ベゾブラゾフは皇帝に朝鮮領有を説いた。日本は朝鮮を勢力下に置こうとしている。これ成れば、朝鮮は北進の足がかりとなる。日本の野心を砕くために、ロシアが先に領有するのがよい。これには必ずしも戦争を必要としない(この時代の列強といえども戦争には口実が要るという)。朝鮮に国策会社を進出させる。産業、都市建設、鉄道・港湾建設などにロシア資本をたっぶり注ぎ込むことで、機会があれば一気に日本の勢力を朝鮮から駆逐できる。そのようにベゾブラゾフは皇帝に献策し、皇帝も話に乗った。このような趣旨で明治34年に東亜工業会社という会社が設立された。満州は軍、朝鮮はこの会社が分担する。

設立の前年から、軍人が商人を装い、軍事地理や経済地理を調査していた。駐韓公使バヴロフを使わせ、馬山浦に近い栗九味の409エーカーの土地を租借することを韓国政府に認めさせた。更に巨済島を他国に貸さないという約束を得た。馬山沿岸と巨済島とは鎮海湾を抱いて天然の良港をなし、対馬へは最短距離にある。ここに軍港と要塞ができて、艦隊が収容されれば日本にとって脅威となりうる。

ロシアは東亜工業会社の名義で鴨緑江河口の竜巌浦港を根拠地として森林事業を始めた。



もうひとりアレクセーエフという人物がいる。ベゾブラゾフの献策により高い地位に上がったらしい。極東総監に就いている。

>バイカル湖から東ぜんぶの軍事と行政を独断専行しうる大職で、一方、清国、朝鮮、日本に対する外交上の専断権をもった。外務大臣を通さなくてもいいということになっていたから、極東におけるロシア皇帝の完全な分身としてかれは旅順に常駐した。

ベゾブラゾフとアレクセーエフの二本立てにより、極東の件が積極的に進められるに至ったらしい。

>一方、常識派のウィッテはこの時期に皇帝に遠ざけられ、政界から没落している。ベゾブラゾフの工作によるものとされた。



ロシアのやり方があまりに露骨であるから、盟友ウィルヘルム二世も心配になってきたらしい。

日本は、ロシアの様子がこのままでは開戦する他ないと決心し、開戦準備をしている、という主旨の暗号電報がドイツ外務省に届いた。ウィルヘルム二世は、ロシアとは同盟関係にある以上この情報を伝える義務があると考えた。ニコライ二世は保養のための海外旅行でダルムシュタットに滞在しており、ここにウィルヘルム二世の侍従武官が訪ねてきて、電報の件を伝えた。このとき、私が戦争を欲しない限り戦争はありえない、というようなことを答えたという。この話はパリやベルリンの外交界で話題となったらしい。

ウィッテもこの話をニコライ二世の廷臣であるフレデリック男爵から聞いた。ウィッテはパリに滞在しており、ここにフレデリック男爵が訪問してきた際に聞いた。

このニコライ二世の対日外交観をウィッテが解釈するに、日本も清国もロシアと戦争ができないのであるから、ロシアが戦争を欲しない限り戦争は起こりえない、ということらしい。日本も清国も言いなりにならないのであるから、威圧して命令を聞かせる他ない、ということらしい。

>「戦争はありえない」
>「なぜなれば、私が戦争を欲しないから」
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