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坂の上の雲、第三部、第四部、第五部、第六部

坂の上の雲、第三部、第四部、第五部、第六部

日露戦争(日露戦争

第三部 砲火、旅順口、陸軍、マカロフ、黄塵、遼陽、旅順、沙河、第三部あとがき
第四部 旅順総攻撃、二○三高地、海濤、水師営、黒溝台、第四部あとがき
第五部 黄色い煙突、大諜報、乃木軍の北進、鎮海湾、印度洋、奉天へ、会戦、第五部あとがき
第六部 退却、東へ、艦影、宮古島、敵艦見ゆ、抜錨、沖ノ島、運命の海、砲火指揮、死闘、鬱陵島、ネボガトフ、雨の坂、第六部あとがき



陸軍系

3-3 「陸軍」
3-6 「遼陽」
3-8 「沙河」
4-5 「黒溝台」
5-3 「乃木軍の北進」
5-6 「奉天へ」
5-7 「会戦」
6-1 「退却」



3-3 「陸軍」
…黒木軍(第一軍)、朝鮮半島に上陸、鴨緑江渡河(鴨緑江会戦)、九連城の攻略
…奥軍(第二軍)、遼東半島に上陸、金州・南山の攻略(南山の戦い)、秋山支隊とシタケリベルグに属する騎兵団が衝突(得利寺の戦い

3-6 「遼陽」(遼陽会戦
…奥軍(第二軍)、野津軍(第四軍)、正面より攻勢
…黒木軍(第一軍)、東方より攻勢、太子河渡河、饅頭山(五頂山)攻略

3-8 「沙河」(沙河会戦
…ロシア軍南下、攻勢にて対応

4-5 「黒溝台」(黒溝台会戦
…ミシチェンコ軍の威力偵察(ミシチェンコ
…永沼秀文挺進隊、長谷川・山内・建川挺進隊
…グリッペンベルグ軍(グリッペンベルク)の攻勢、黒溝台・沈旦堡の攻防(秋山支隊)、臨時立見軍(立見尚文

5-3 「乃木軍の北進」

5-6 「奉天へ」(奉天会戦
5-7 「会戦」
6-1 「退却」
…黒木軍(第一軍)、敵左翼
…奥軍(第二軍)、敵右翼
…乃木軍(第三軍)、西方進出
…野津軍(第四軍)、正面
…鴨緑江軍、東方進出

ロシア軍
アレクセーエフ極東総督、クロパトキン総司令官・陸軍大臣、リネウィッチ、ハルビン最終決戦戦略



海軍系

3-1 「砲火」
3-2 「旅順口」
3-4 「マカロフ」
3-5 「黄塵」

3-7 「旅順」
4-1 「旅順総攻撃」
4-2 「二○三高地」
4-3 「海濤」
4-4 「水師営」



3-1 「砲火」
日進春日が開戦直前に回航
…1904年2月6日、国交断絶
…仁川揚陸作戦(仁川沖海戦

3-2 「旅順口」
…旅順艦隊水雷攻撃作戦
…旅順港閉塞作戦(旅順港閉塞作戦

3-4 「マカロフ」
…旅順艦隊ペトロパウロウスク沈没(マカロフ
…初瀬・八島沈没

3-5 「黄塵」
…黄海海戦(黄海海戦
…ウラジオ艦隊リューリック沈没(ウラジオストク巡洋艦隊)(蔚山沖海戦

旅順(旅順攻囲戦
3-7 「旅順」
4-1 「旅順総攻撃」
4-2 「二○三高地」
4-3 「海濤」
4-4 「水師営」
…乃木軍(第三軍)(乃木希典)、参謀長伊地知幸介(伊地知幸介)、第一次総攻撃、第二次総攻撃、第三次総攻撃、白襷隊(白襷隊)、児玉源太郎の督戦(児玉源太郎

旅順要塞
コンドラチェンコステッセル



バルチック艦隊(日本海海戦

4-1 「旅順総攻撃」
4-3 「海濤」
4-4 「水師営」
5-1 「黄色い煙突」
5-4 「鎮海湾」
5-5 「印度洋」
6-2~12 「東へ」「艦影」「宮古島」「敵艦見ゆ」「抜錨」「沖ノ島」「運命の海」「砲火指揮」「死闘」「鬱陵島」「ネボガトフ」

ロジェストウェンスキーは10月15日にバルチック艦隊を率いてリバウ港を出港。10月20日、スカーゲン岬を通過。10月22日午後1時、北海のドッガー・バンクにて英国漁船群を砲撃するという事件を起こす(ドッガー・バンク事件)。事件から二日目の正午、英仏海峡を通過。スペイン・ヴィゴ港(中立港)に寄港(5日間滞在する)。スペイン政府に石炭積込禁止の通告を受ける。積込量の制限付で許可が下りる。ヴィゴを出港する。

11月3日、タンジール港(フランス)に到着、石炭を積む。タンジール港より艦隊を二分する。フェリケルザムの艦隊はスエズ運河を経由し、マダガスカルにて主力艦隊と合流予定。12月28日にマダガスカル島北端に達する。ノシベに停泊し主力艦隊との合流を待つ。

11月12日午前8時、主力艦隊がダカール港(フランス)に到着。石炭を積む。ダカール港を出発。ガボン港に到着。フランス政府に石炭の積込みを止めるよう言われるが、黙殺して積込む。12月1日、ガボン港を出港。大魚湾(ポルトガル)に到着、石炭を積んでいるドイツ汽船と合流、ポルトガル政府の寄港禁止要求を無視し石炭を積む、積込みを終えたのち出港。アングルベクウェン港(ドイツ)に入港(203高地陥落を知る)。アングルベクウェン港を出港。喜望峰通過。アグラス岬の灯台を通過。

12月29日、セントマリー島に停泊(旅順艦隊消滅を知る)。1月6日、アントンジル湾を通過(旅順開城を知る)。1月8日に北端ドアンブル岬をまわる。1月9日にノシベ港(フランス)に到着。艦船40数隻、乗員1万2千がここに約2ヶ月間停泊。

※12月5日、203高地が占領される。12月17日、日本海軍がセヴァストーポリの沈没を確認。1月2日、旅順開城。旅順艦隊消滅を受けて第三太平洋艦隊の編成を決定、ネボガトフをしてバルチック艦隊と合流予定。

3月15日から石炭の積込を開始する。3月16日にノシベ港を出港。インド洋を横断(20日間)。途中、チャゴス群島を通過。4月5日朝方、左舷前方におそらく大ニコバル島を望む。4月8日昼ごろ、シンガポール沖に達し、通過する。4月13日、カムラン湾で石炭を積む。4月22日、カムラン湾を出発、4月25日まで沖合で漂泊、4月26日からヴァン・フォン湾沖にて漂泊(20余日間)。ヴァン・フォン湾から三海里沖合でネボガトフ艦隊の合流を待って待機。

ネボガトフは2月15日にリバウ港を出港。スエズ運河を経てインド洋に達する。中型艦のみであるためスエズ運河の通過が可能だった。5月1日にマラッカ海峡に入る。5月9日にロジェストウェンスキー艦隊と合流(リバウ出港から84日)。

5月14日にバルチック艦隊がヴァン・フォン湾を出発。



外交、その他

3-6 「遼陽」
5-2 「大諜報」
6-1 「退却」
6-13 「雨の坂」



3-6 「遼陽」

外国人記者、外国観戦武官の待遇がよろしくなかったことが災いしたのか、世界に報じられた第一報は日本が敗れたかのような内容だった。戦債に依存する日本としては、この状況はまずかった。後日遼陽開戦に関する詳細の発表を行うことによって、この一件は落着した。

彼らは開戦当初も東京で滞在せざるを得ず、大いに不満だった。これが児玉のはからいで各軍に配属されることとなった。ただし、各軍によって応対が異なり、たとえば黒木軍の参謀長藤井茂太はオープンであったため好評だったが、奥軍の幕僚は秘密主義であったため不評だった。遼陽会戦の報道内容を受けて、大本営は会議を持って、あわてて訓令を発するなどした。大本営に代わって記者等の便宜を図るよう工面してきた児玉にとってみれば、配慮が足りなかったのは大本営なのであって、これには憤慨した。

高橋是清は戦費調達に奔走していた。第一回六分利付公債1,000万ポンドの内の半分を引き受けてくれたのは、米国クーン・ロエブ商会の主であり全米ユダヤ人協会の会長でもある、ドイツ系のユダヤ人のヤコブ・シフという人物だった(ジェイコブ・シフ)。ユダヤ人の迫害に関しては、イワン四世などに例があるらしい。

この他にもロシアはポーランドやフィンランドを征服しており、反露分子は少なくない(ポーランド分割)(ロシア・スウェーデン戦争)。欧州では、明石元二郎大佐は反露運動家などと接し、100万円の工作資金を元に、資金提供などを行っている。



5-2 「大諜報」

当時、世界中の情報はロンドンに集まっていた。林董の活躍もあって成立した日英同盟であったが、豊富な情報が得られるようになるという思わぬ利益を生んでいた。ロンドンには「情報集積所」がおかれ、駐在武官宇都宮太郎中佐がそこの主任であった。

さらに欧州では、明石元二郎が反露運動家などと接し、資金提供などを行っていた(明石元二郎)。日本から工作費として100万円が渡されていたが、帰国時点での残金は27万円だった。

1905年1月22日にペテルブルグにて、いわゆる血の日曜日事件が起こった(血の日曜日事件)。



6-1 「退却」

奉天会戦が一段落したのち、児玉が帰国した。早期の講和を促しつつ、表向きの次の目標はハルビンと策定した。米国では金子堅太郎、英国では末松謙澄(けんちょう)が活動していた。駐米公使高平小五郎に、日本がバルチック艦隊を恐れている、と解釈されるような失言があったらしい。日露の講和はバルチック艦隊との決戦の結果を待たざるを得なくなった。



6-13 「雨の坂」

バルチック艦隊の脅威を取り除き、海軍の役割は一段落した。満州の戦線では以前として衝突が続いている。日本海海戦の結果を受けて、日露の講和が進んだ。1905年9月5日に講和条約が調印され、9月13日に陸軍が休戦地域協定、9月18日に海軍が休戦地域協定、10月14日に講和条約が批准された。

1905年9月11日、戦艦三笠に火薬庫爆発の事故があり、339名が亡くなった。日本海海戦の戦死者は百数十名であったが、この事故の犠牲者は皮肉にもこれを上回った。

好古と真之の母である貞は1905年6月に亡くなった。真之は1918年2月4日に満50歳で亡くなった。好古は1930年11月4日に満71歳で亡くなった。

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